ヘレニズム世界 アレクサンドロスの帝国・パルティア・ササン朝

中東全域に支配を広げたアケメネス朝ペルシアだったが、ギリシア世界の国家との戦いや地方の知事の反乱によって滅亡し、その後マケドニアのアレクサンドロス大王によって支配された。しかし、アレクサンドロスの死後はイラン系とギリシア系に分裂する。

ここではアケメネス朝ペルシア滅亡後の古代オリエント世界のその後についてまとめる。

1章:アレクサンドロス大王の帝国

繰り返しになるが、中東を支配したアケメネス朝ペルシアは、ギリシア世界との戦いで滅びアレクサンドロス大王によって支配された。アレクサンドロス大王の支配は、ギリシアからオリエントまで及んだため、オリエントとギリシア双方の歴史の学びと共に理解していく必要があるが、ここでは古代オリエントの歴史の最後として、解説していく。

1-1:マケドニア

世界史におけるマケドニアの登場を理解するためには、オリエントの歴史とギリシアの歴史双方を知っておく必要がある。そもそも、オリエントはアケメネス朝ペルシアによって全土が統一され、ペルシアはさらに西方に支配を広げるためにギリシアと接触した。しかし、ギリシアの都市国家はアテネとスパルタを中心に対抗し、ペルシア戦争で退ける。しかし、ギリシアではアテネの実力が高まり、アテネが他のポリスを支配しようと行動したことから反発を招き、アテネ勢力(デロス同盟)とスパルタ勢力(ペロポネソス同盟)にギリシアは二分され、ペロポネソス戦争が起こる。結果、ペロポネソス同盟が勝利するものの、相次ぐ戦乱によってギリシアのポリスは荒廃し、貧富の差の拡大、傭兵制の導入など大きく変化する。

1-1-1:アレクサンドロス大王の侵略

こうしたギリシア世界の変化の中、その北方の辺境であったマケドニアがギリシアに勢力を伸ばそうとしたのであった。マケドニアのフィリッポス2世は、アテネとスパルタが争っているときに上の地域から攻撃し、漁夫の利的に勝利する。カイロネイアの戦いでは、アテネはテーベと同盟してマケドニア・フィリッポスと戦ったものの敗北。コリント同盟を結成して、マケドニアは全ギリシアを支配したのである(紀元前334年)。フィリッポスは貴族によって殺されるも、その後はアレクサンドロス3世が継ぐ。アレクサンドロス3世は、アレクサンドロス大王として広く知られる人物である。

ギリシアを統一したマケドニアの王アレクサンドロスは、さらに支配を広げるために東方に目を向ける。東方にはギリシアと争ったアケメネス朝ペルシアがあったが、アレクサンドロスはペルシア戦争の報復のため小アジアに侵入し、イオニアのギリシア都市を解放し、さらにイッソスの戦いでダレイオス3世を破る。さらに今度はシリア海岸を南下してフェニキアの都市を支配し、さらにエジプトまで入ってペルシアから征服されていたエジプトも開放する。エジプトではアレクサンドロスは解放者として歓迎され、エジプトにアレクサンドロス(アレクサンドリア)という都市を建設する。

さらに、アレクサンドロスはメソポタニアに向かってガウガメラの戦いでペルシア軍を破り、アケメネス朝ペルシアを滅ぼした。オリエントを統一したペルシアを滅ぼしてしまったのである。さらに、アレクサンドロスはソグディアナ、ガンダーラ(北西インド)地方まで侵略してしまった。

アレクサンドロス大王の遠征

アレクサンドロス大王の遠征 引用元:世界の歴史まっぷ

これ以上は侵略できなかったものの、わずか10年程度でペルシア全土とギリシア全土という、かつてない広大な帝国を作ったのである。

1-1-2:マケドニアの統治機構

このように圧倒的な強さを持ったマケドニアだったが、統治機構はペルシアのものをそのまま継承したものだった。

征服した地域の支配はペルシア人の役人や地方の民族に任せ、ペルシア人の軍隊はマケドニア軍に編入した。皇帝の儀礼もそのまま採用するなど東西融合政策をとったのであった。アレクサンドロス大王とその後継者は、支配地に都市を建設し、そこにギリシア人を移住させ、ギリシアの文化をその地に伝えていったことで独自のギリシア風の文化が生まれていった。これをヘレニズム文化と言う。

1-2:ヘレニズム文化

繰り返しになるが、ヘレニズム文化とは東方に移住したギリシア人によってギリシアの文化が東方に伝わったできたもので、ギリシア風の文化ということである。特徴はアレクサンドロス帝国の拡張によって東西の文明が融合した、世界市民主義的な風潮を持つ文化であったという点である。つまり、国家、民族といった枠を超えた風潮があったのだ。とはいえ、東西融合であってもギリシアの影響が強かったという点には注意が必要である。

彫刻として有名なのは「ミロのビーナス」「ラオコーン」「サモトラケのニケ」。

ミロのヴィーナス

ミロのヴィーナス 引用元:Wikipedia

ラオコーン像

ラオコーン像 引用元:Wikipedia

哲学は、ゼノンが中心で禁欲主義のストア派や、エピクロスが中心の快楽主義のエピクロス派。

自然科学は、アレクサンドリアのムセイオン(王立研究所)の研究があり、下記のようなものがあった。

  • エラトステネス(地理学):地球の周囲の長さを測定
  • アリスタルコス(天文学):太陽中心説
  • エウクレイデス(平面幾何学)
  • アルキメデス(数学、物理学)

この時代、アレクサンドロスの帝国の拡張に伴って東方にも都市が建設され、都市と都市を結ぶシルクロードが確立した。さらに、アラム語やギリシア語が国際語として普及したことも大きな出来事である。ヘレニズム文化の中におけるギリシア美術は、シルクロードを伝ってインド、中国、日本へと大陸を超えて伝承した。

1-3:アレクサンドロス大王の死後の分裂

アレクサンドロス大王は、支配を広げるだけ広げて33歳の若さでバビロンにて病死してしまった。マケドニアの帝国はアレクサンドロスによって拡張されたものだったため、アレクサンドロスの死後は後継者争いのために分裂してしまう。この後継者争いをディアドコイ戦争と言う

ディアドコイ戦争の結果、マケドニアの帝国は3つに分裂した。ヨーロッパ側の領土がアンティゴノス朝マケドニア、エジプトのアレクサンドリアが発展してできたのがプトレマイオス朝エジプト、残りの広範囲の部分がセレウコス朝シリアである。

アレクサンドロスの帝国建設からこの3か国の時代を「ヘレニズム時代」と言う。

紀元前3世紀頃の西アジア

紀元前3世紀頃の西アジア 引用元:世界の歴史まっぷ

1-3-1:プトレマイオス朝エジプト

プトレマイオス朝は、アレクサンドルを首都としてヘレニズム文化や商業的な中心として繁栄した。

ファラオの統治機構・官僚制をそのまま受け継いで全国を王の私有地とし、経済活動をすべて国家の管理下に置いた。エジプトだけでなくパレスティナ、南シリア、フェニキア、小アジア沿岸、エーゲ海の島々、キプロスまで支配したものの紀元前2世紀にはセレウコス朝の強大化によって植民地を奪われ衰退する。その後、セレウコス朝への対抗のためにギリシアで力を増していたローマに助けを求めるも、ローマの干渉を招くことになり紀元前30年にはローマに併合された。

1-3-2:セレウコス朝シリア

セレウコス朝は、アレクサンドル大王の死後もっとも広い土地を支配し、西方はアナトリア、東方はバクトリアまで支配した。セレウコス朝はアレクサンドロス大王の統治手法を継承して支配したが、相次いで植民地が独立して衰退することとなる。紀元前3世紀半ばにはバクトリア王国が独立(ギリシア人)、パルティア(スキタイ人)も独立、さらに小アジア西部のペルガモン王国も独立する。支配地縮小のため、アンティオコス3世は西方に侵入しプトレマイオス朝からパレスティナ、南シリアを奪う。しかし、ユダヤ人を迫害したためユダヤ人は反乱を起こして独立。さらに、小アジアに侵入したセレウコス朝はローマに敗れる。紀元前64年にローマに併合。

紀元前2世紀頃の西アジア

紀元前2世紀頃の西アジア 引用元:世界の歴史まっぷ

2章:パルティア・バクトリア

この時代、地中海世界ではローマ帝国が栄えていくため世界史の教科書的にはマケドニアの後にローマの項目が来る。しかし、ここではアレクサンドロスの帝国の後の分裂と連続させて、その後に現れたパルティアとササン朝について説明する。

繰り返しになるが、アレクサンドロスの死後、その支配地は分裂しその大半はセレウコス朝シリアによって支配された。しかし、セレウコス朝はさらに東西分裂し、西がパルティア、東がバクトリアになった。

紀元前2世紀後半の西アジア

紀元前2世紀後半の西アジア 引用元:世界の歴史まっぷ

2-1:バクトリア

東のバクトリアは、アフガニスタンや中央アジアあたりに残されたギリシア人が建国した国家である。

バクトリアは、一時はインド北西部まで支配地を広げたものの、内紛やパルティア、北方のスキタイ人などによって弱体化する。バクトリアが国家として成立していたのは紀元前255年から紀元前139年までの100年余りのみで、その後、スキタイ人の一派であるトハラ人によって滅ぼされた。

2-2:パルティア

西のパルティアは、イラン系(スキタイ人)のアルサケスによって独立したものである。紀元前2世紀半ばにはミトラダテス1世がイラン高原、メソポタミアを支配し、セレウコス朝の東の都セレウキアを占領、さらにセレウコス朝の副都クテシフォンを建設し、そこをパルティアの首都とした。ミトラダテス2世の時にはインダス川からオクサス川、コーカサス山脈、ユーフラテス川まで及ぶ広大な帝国が成立する。そして、帝国の統治組織はアケメネス朝ペルシアのものを継承し、地方に知事を配置、交通路を整備するなどの政策を行った。

しかし、パルティアはとうとう中央集権体制を確立することができなかった。パルティアは皇帝も存在したものの、さまざまな氏族の連合体的な政体であったため、地方で台頭する勢力を抑えることができなかった。

さらに、セレウコス朝はローマによって紀元前64年に滅ぼされ、パルティアはローマと直接国境を接するようになった。強大化するローマは東方進出し、パルティアはシリアに進出。一時はローマの遠征軍を撃破するなど優勢に立ったものの、その後劣勢になる。さらに、台頭したササン朝によってパルティアは滅ぼされた。

3章:ササン朝ペルシア

パルティアがササン朝ペルシアに滅ぼされたのは226年のころであり、ササン朝はそれから西アジアを支配した。

アケメネス朝ペルシアはペルシス地方から発祥したが、この地方ではパルティアから支配されてからも文化や君主を継承し続けていた。支配下でも復興、そしてペルシア帝国(アケメネス朝ペルシア)の復活を目指しており、パルティア衰退の時期にアルデシール1世がパルティアを倒して建国したのである。また、イラン民族の宗教として、帝国復活のためにゾロアスター教を信仰する。

ササン朝ペルシア(紀元前6世紀頃の内陸アジア)

ササン朝ペルシア(紀元前6世紀頃の内陸アジア) 引用元:世界の歴史まっぷ

2代目のシャープール1世は、支配地を広げ中央集権的な統治を行おうとした。西方ではローマに奪われていたメソポタミア地方の土地を回復(ただしその後、メソポタミア地域についてはローマとたびたび争うことになる)。さらに東方では、インドのクシャーナ朝を破って、その北方バクトリア地方も支配する。クシャーナ朝を破ったことで、その国境は中国領と隣接するまでに至る。

こうして中国と隣接したことで、陸の交易圏を独占することができた。

さらに、海の交易についても、ペルシア湾からインドまで航路を整備し利益を独占しようと争った。

その後、ホスロー1世の時代に、ササン朝ペルシアは全盛期を迎える。6世紀頃になると北方にはエフタルが台頭して侵入を繰り返すようになり、ペルシア国内においてはマズダク教(※)が流行して混乱を招いた。ホスロー1世はマズダク教を弾圧し、トルコ系遊牧民の突厥と同盟を組んでエフタルを滅ぼし、混乱を収めた。さらに国内においては政治改革、官僚制整備などを行ったことで政治的に安定し、ペルシアは最盛期を迎えたのであった。ササン朝の交易はインド経由で中国にまで及んでおり、陸でもシルクロードを通じた交易が栄えた。※マズダク教は完全な平等を理想とする共産主義的宗教であり、あらゆる特権の廃止や財産の共有などを主張して民衆に浸透したが、かえって社会の混乱を招いた。

しかし、ササン朝はホスロー1世の死後に衰退を迎える。ホスロー1世の死後、官邸や軍隊では党派抗争が巻き起こり、また東ローマ帝国やトルコ系民族が圧迫を繰り返すようになる。ホスロー2世のころには一時的に再興して領土が最大になるも、7世紀半ばにイスラムが来襲し、ニハーヴァンドの戦いで敗北。ササン朝は滅亡した。

一時分裂したが、ホスロー2世によりササン朝ペルシアの領土は最大になる。

4章:パルティア・ササン朝ペルシアの文化

パルティアおよびササン朝ペルシアでは、独自の文化が栄えた。

パルティアでは、ヘレニズム(ギリシア風の文化)の影響を受けギリシア語やギリシア文字が利用された。しかしやがて中東(特にイラン)の文化の影響が強くなり、パルティア後期には公用語が中世ペルシア語・アラム文字になる。さらに、前述のようにゾロアスター教が信仰されるようになり、ササン朝になるとゾロアスター教が国教となった。ササン朝では、教典「アヴェスター」が完成される。

ササン朝では、ゾロアスター教が国教となったものの信仰が強いられたわけではなかったため、国内ではさまざまな宗教が信仰された。そのため、国内には仏教、キリスト教、ユダヤ教などの信者もおり、3世紀にはゾロアスター教とキリスト教、仏教を融合したマニ教が誕生した。マニ教は異端として弾圧されたが隣接する諸文明に広く伝わった。

宗教以外については、ササン朝の時代はさまざまな芸術・文化が栄えたことが知られている。

東ローマ帝国のユスティアヌス帝は、異教学派を弾圧したためアテネのアカデメイアが閉鎖され、アテネのギリシア人学者はササン朝に亡命する。そしてササン朝の首都クテシフォンには、哲学、医学などの様々な研究機関が設立され、学問をペルシア語に翻訳していったのである。こうして、ギリシアの学問の遺産は、中東に保存されることになったのであった。

また、工芸美術も振興されてシリアから職人を移住させ、ガラス器、絹織物、金銀細工などが作られた。これらの工芸作品は、イラン的な要素にインド、ギリシア・ローマ的な要素が組み合わさった国際的な特徴を持った。こうした様式、技術はその後のイスラムにも継承され、また地中海や中国(隋・唐)、そして日本にまで伝わった。

日本では、漆胡瓶(しっこへい)や白瑠璃碗(はくるりわん)、獅子狩文様錦などが伝来し、正倉院に残っている。

獅子狩文様錦

獅子狩文様錦 引用元:Wikipedia

まとめ

ここまでを振り返ると、オリエント世界の全土を征服したアケメネス朝ペルシアはさらに西方を支配しようとするも、ギリシアの都市国家連合軍に敗北。しかしそのギリシアも内部対立によって弱体化し、辺境だった小アジアのマケドニアによってギリシア全土が支配される。さらに、マケドニアのアレクサンドロス大王はペルシア戦争の報復を名目にアケメネス朝ペルシアを侵略し、エジプト、シリア、ソグディアナ、ガンダーラまで及ぶ広大な土地を支配した。また、各地に都市を建設してギリシア人を移住させ、地方はその土地の者に統治を任せた。移住したギリシア人たちを中心に、ヘレニズム文化(ギリシア風文化)が発展する。

しかし、アレクサンドロス大王は若くして死亡し、死後はその部下たちによって帝国が分裂し、ヨーロッパ側の領土がアンティゴノス朝マケドニア、エジプトにプトレマイオス朝エジプト、残りの広範囲の部分がセレウコス朝シリアとなった。マケドニア、エジプトは紀元後になってローマに支配されるも、セレウコス朝シリアはさらに分裂して西がパルティア、東がバクトリアとなる。

バクトリアはギリシア人によって建国されたが、独立していたのはわずかな期間でその後スキタイ人に滅ぼされる。パルティアはスキタイ人の一派によって建国され、アケメネス朝ペルシアの統治機構を引き継いだものの、氏族の連合体であったため中央集権的になりきらず台頭したササン朝ペルシアによって滅ぼされた。

ササン朝ペルシアはアケメネス朝ペルシア滅亡後に、ペルシアの復活をもくろんだイラン人らによって建国された国家であり、ローマからメソポタミアを奪い返しインドのクシャーナ朝を破り広大な支配地を確立。また、陸と海の交易から栄え、独自のササン朝文化も発展させた。紀元前3世紀から7世紀まで続いたものの、台頭したイスラムによって滅ぼされた。

参考文献

木下康彦、木村靖二、吉田寅(編)『詳説世界史』山川出版社

屋形 禎亮 佐藤 次高『地域からの世界史(7)西アジア』(上)朝日新聞社

マクニール『世界史』(上)中公文庫

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です