古代オリエント(2)エジプト

メソポタミアだけでなく、古代では別の地域でも(同じく大河の流域で)文明が生まれた。特に後にメソポタミアとも交流することになるのがエジプトである。

エジプト文明はナイル川の流域に生まれたが、ナイル川の治水や水資源の有効活用のためには、メソポタミアと同じく強力な指導者や、大量の労働者が必要となる。そのため、エジプトでもナイル川の流域で、巨大な共同体が生まれ統一的な文明が誕生したのであった。

 

1章:エジプト文明の始まり

古代の歴史家ヘロドトスは、「エジプトはナイルのたまもの」と言った。それは、エジプトがナイル川の流域で、ナイル川の恩恵によって栄えた文明だからである。エジプトの文明は、以下のようにメソポタミアに比べればシンプルに区分できる。

  • エジプトの統一まで
  • 古王国
  • 中王国
  • 新王国

まずは、統一王朝が誕生するまでの簡単な歴史を説明する。

1-1:統一王国の誕生:メネス王

エジプトでは、まずはノモスと言われる村落がナイル川流域に生まれた。これは小さな共同体であったと考えられるが、ナイル川の治水、用水の活用のためには、メソポタミアで起こったのと同じく、たくさんの人を動員して共同作業する必要があり、そしてそのためには人を動かす権力者が必要となる。そのため、ノモスは少しずつ統合されていったと考えられる。

ノモスは、やがて下エジプト(ナイル川の下流のデルタ地帯)と上エジプト(ナイル川上流)で2つの王国を形成。さらにこの2つの王国は紀元前3000年から2850年の間に、上エジプトのメネス王によって統一されたと考えられている。メネス王以降、エジプトを統一した王はファラオ(現人神)と言われる。

ファラオが権力者として登場したのは、ナイル川の氾濫と関係していると考えられている。ナイル川は年に1回決まった時期に氾濫し、養分のある土を運んでくる。それは、農業生産性に関わるため、当時の人々にとっては非常に重要なことであった。暦を持たない古代エジプト人は、その氾濫の時期を予期できなかったが、天文学等に通じて暦を読める人間が登場した。彼らは、ナイルの氾濫を予言することができたため、人々から支持されるようになり、預言者で王であるファラオと呼ばれるようになったのである。

1-2:シュメール人の影響

また、エジプト文明が生まれた初期の時代には、シュメール人の影響があったとも考えられている。マクニール『世界史』によると、シュメール人の一部はペルシャ湾頭からアラビアを回航し、紅海に入ってエジプト人と接触し、灌漑、冶金術、文字、犂、車のついた乗り物、大建造物といった技術が伝えられたと指摘されている(77-78頁)。

しかし、シュメール人の伝えた技術がすべてそのまま受容されたのではなく、エジプト人は部分的に受け入れ急速に、独自の文明を発達させた。

さらに、エジプトと言えば絶大なファラオの権力、巨大なピラミッド、黄金の装飾といった一般的なイメージがあるが、これはメソポタミアのように権力者が神の代弁者である「神官」とされたのではなく、ファラオ自身が王そのものと考えられたからであった。ファラオは不滅の魂を与えることができるため、人々は絶対的なファラオに服従し、ファラオは富を一手に握ったのである。

2章:古王国:都はメンフィス(下エジプト)

メネス王以降の時代を古王国時代と言う。古王国時代は起源前27世紀の第三王朝から第6王朝までの約500年間である。古王国時代、エジプト文明は下エジプトの都メンフィスを中心に発展した。

エジプトが急速に文明化することができたのは、地理的な条件が優れていたからである。エジプトはナイル流域に形成された文明であるが、ナイル川の両側は砂漠であり、外敵の侵入を恐れる必要はなかった。また、ナイル川は基本的に穏やかな大河であるため、移動手段として使えば広範囲の国家を統治することが可能であった。メソポタミアが、王が大軍を率いて各都市を移動しなければならなかったのに対し、統治が容易だったのである。

エジプトの古王国は、このような環境を利用して富と権力を掌握した。また、この時期に神権政治の伝統も生まれたのであった。

ファラオは、ナイル川を使って各地方から富を集め絶対的な権力を握った。その権力を使って古王国の時代にピラミッドが建設(クフ王のものが最大・ギザ地方)され、初期エジプト文字、絨毯、音楽・舞踏などの芸術が花開いたのであった。特に、今も残る大ピラミッドは古王国時代に造られたものとされている。

第6王朝の後、ファラオの権力が衰える。それは、ファラオら王家の中央と地方の混乱が原因だった。もともと、ファラオが絶大な権力を持ちつつも、地方まで信仰を統一することはできていなかった。地方では地方の神が信仰されていたのである。さらに、地方役人の反逆が起きて各地方のノモス(村落)が独立し、統一的な支配が崩れた(第1中間期)。こうして紀元前2200年以降の1世紀の間、エジプト国内は分裂状態になった。

3章:中王国:都はテーベ(上エジプト)

分裂したエジプトを紀元前22世紀頃に再び統一したのが、都を上エジプトのテーベ(現在のルクソール)に置く王家である。これを中王国と言い、中王国時代は第11王朝と第12王朝の2つの王朝の時代である。

テーベは政治や宗教の中心として発展したものの、それは古王国時代と連続した伝統を持つものであった一方、古王国時代ほど中央集権的でもなかったと考えられる。中王国時代、各地方の権力者が重要な役割を持ち、テーベはメンフィスほど力を集中しなかったのである。しかし、こうした権力の分散は、その後のエジプトの歴史的には意味のあることだった。

紀元前17世紀初頭、シリア方面から遊牧民の異民族ヒクソスが侵入した。メソポタミアの記事で説明したが、インド=ヨーロッパ民族の移動によってシリアにいたフルリ人が押し出され、エジプトに移動したと考えられている。フルリ人の一部がエジプトにまで移動し、紀元前1650年頃、第十五王朝(ヒクソス王朝)を打ち立てた。ヒクソスはエジプトを1世紀以上支配したのである。ヒクソス王朝によって、エジプトとメソポタミアは活発に交流するようになる。

ヒクソスの侵入によって中王国は衰退したものの、地方の権力が分散していたおかげで、エジプトの文化や技術、知識が滅ぶことなくその後に継承されることができた。

紀元前16世紀には、都テーベにエジプト第18王朝が起こり、ヒクソスを追い出してエジプト全土を再び統一した。ここから新王国時代になる。

4章:新王国:都テーベ

新王国時代は、第18王朝がヒクソスを追い出してエジプトを統一してから、第20王朝までの約500年間である。数々の王の歴史が知られているが、その中でも注目に値する2つの王をピックアップして説明する。

4-1:植民地体制の形成

ヒクソスの支配から、異民族支配に対抗するために、シリア、パレスティナ地方にエジプトから遠征軍が送られるようになる。エジプトはメソポタニア北部から北シリアを支配していたミタンニ王国と対決し、エジプトにとって脅威であったため、紀元前15世紀にトトメス3世によって植民地支配が行われた。

紀元前15世紀頃のオリエント世界

紀元前15世紀頃のオリエント世界 引用元:世界の歴史まっぷ

シリア・パレスティナ地方は、エジプト、ヒッタイト、ミタンニという強国に挟まれた地域であり、この地域ではたびたびこれらの国家が衝突を繰り返すようになる。植民地体制を築いたエジプトは、新王国時代の最盛期を迎えた。

(参考:『地域からの世界史 西アジア』(上)朝日新聞社45-46頁)

 

4-2:アメンホテプ4世(イクナートン)

アメンホテプ4世は、第18王朝の王である。新王国時代、第18王朝と第19王朝が最盛期であったが、アメンホテプ4世は信仰の力によって権力を集中しようとしたことで知られている。

もともと、エジプトではアモン神やラー神中心の多神教であった。しかし、これらの神の言うことが分かるという神官が権力を持ったため、アメンホテプ4世は神官が権力を持つことに不満を持った。そこでアメンホテプ4世は都をテル=エル=アマルナに移し、アトン神を唯一神とする信仰を強制した。自らもイクナートン(イクナ・アトン=アトンを喜ばせる者)という名前に改称し、アトン神を強制的に信仰させることによって、自らに権力を集めようとしたのである。

イクナートンの時代は、写実的な美術(アマルナ美術)も生まれた。

アマルナ美術の代表

アマルナ美術の代表:ネフェルティティの胸像(紀元前1345年)-Wikipedia

しかし、イクナートンの改革は急速なもので国内は混乱し、またヒッタイトによる侵略など国際情勢も混乱した。イクナートンの信仰改革は王の死で終わり、その後のツタンカーメン王は都をテル=エル=アマルナからテーベに戻し、アモン神信仰が復活した。

4-3:ラメセス2世

エジプト第19王朝は、ヒッタイトに奪われた北シリア回復のため、ヒッタイトと対決した。

第19王朝のラメセス2世は、ラメセス2世は、シリアに進出してヒッタイトとシリアの覇権を争ってカデシュの戦いを行った。戦いは引き分けであり、北シリアのカデシュを取り戻すことはできなかった。

ラメセス2世

ラメセス2世 引用元:Wikipedia

そしてこれ以降、エジプトは衰退の時代を迎える。

紀元前1200年頃、「海の民」の移動によってヒッタイト王国が滅亡し、また海の民によってヒッタイトが独占していた製鉄技術がオリエント世界に流出した。エジプトは製鉄に必要な資源を持つことができず勢力を落とし、第20王朝のころには植民地をすべて失う。

一方で、鉄資源を確保できたメソポタニア周辺諸国は、強い軍事力で支配を広げようとしていく。その後のエジプトはアッシリアによって征服され、アケメネス朝ペルシアによって滅亡させられる。これについては、後に別の記事で触れる。

4-4:エジプト文化

エジプトでは独自の文化が栄えた。宗教と文字に関連するものを紹介する。

4-3-1:宗教

エジプトの宗教は、前述のようにもともとアモン神やラー神を中心とした多神教であった。太陽神ラーが主神だったが、テーベ(上エジプト・中王国以降)に都が移されてから、テーベの守護神アモンと結合し、アモン・ラーという神となった。

エジプトの人々は死後の世界を信じ、霊魂不滅の思想(死者の魂は甦る)と考えられたため、遺体をミイラにして保存した。また、ミイラと一緒に、死者の神オシリス神を書いた「死者の書」が一緒に埋葬された。乾燥した気候もあって、ミイラが現代にも残っていることはよく知られていることである。

4-3-2:文字:ヒエログリフ(神聖文字)

エジプト文明においては、象形文字が使われたことも特徴である。前述のように、エジプトの文字はシュメール人の影響から生まれたと考えられているが、それは独自のものであった。エジプトの文字には王の墓などに使われるヒエログリフ(神聖文字)と、簡略体で文書(パピルス:植物で作る紙)に書かれた神官文字、そして、日常的な民用文字が区別して使われた。

ヒエログリフ

ヒエログリフ 引用元:Wikipedia

また、前述のようにエジプトでは暦を読みナイル川の反乱を予測したファラオが権力を持った経緯から、天文・暦といった実用的な学術が発達した。エジプトでは、1年を12か月、365日とする太陽暦が使われた(後のユリウス暦)。また、十進法も使われるようになった。

さらに、さまざまな壮大な建築が発達したことも良く知られている。

このように、エジプトはシュメールの影響を受けつつ、またナイル川流域という地理的特質の中で繁栄し、急速にオリエントの強国となった。しかし、強国が併存するオリエント世界の争いの中で滅亡する。とはいえ、王家が絶体な権力を持って芸術や文化を発達させたことに特徴があるのである。

参考文献

木下康彦、木村靖二、吉田寅(編)『詳説世界史』山川出版社

屋形 禎亮 佐藤 次高『地域からの世界史(7)西アジア』(上)朝日新聞社

マクニール『世界史』(上)中公文庫

小林登志子『古代オリエントの神々-文明の興亡と宗教の起源-』中公新書

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