ギリシア(2)ポリスの変容・ギリシア文化
クレタ文明、ミケーネ文明を経てポリス(都市国家)として成立していった古代ギリシアは、比較的平等な共同体的な社会で、アテネとスパルタがその代表である。アテネは戦士として戦う者(ギリシア人の成人男子)が市民として認められる民主主義的な社会を作った一方、ドーリア人によって作られたスパルタは、少数の市民によって諸民族を統治する必要性から、軍事的規律の厳しい軍事国家として発展したのであった。
また、ギリシアのポリスはそれぞれ異なる信仰を持ち、アテネとギリシアのように性格の異なるものだったものの、ギリシア人としてのわれわれ意識を持っていたことも特徴である。
このギリシア世界の諸国家は、時には連合してオリエントの文明と戦い、時にはギリシアを二分して戦いあった。ここでは、ポリス成立後のギリシア世界の動向を解説する。
目次
1章:ペルシア戦争とペロポネソス戦争
ギリシア文明がポリスを基盤に発達していくころ、まだ文明の中心はオリエント世界だった。オリエント世界は、アケメネス朝ペルシアが統一し絶大な力を持っていた。ペルシアは、さらに支配の手を広げようと、小アジアのリディアを滅ぼしギリシア世界の一部である、小アジアのイオニアまで支配する。イオニアとは、小アジア沿岸のギリシアに一番近い所でギリシア人が多く住んでいた。
1-1:ペルシア戦争
イオニア地方を指導したポリスはミトレスであり、ミトレスの僭主アリスタゴラスは紀元前499年、ペルシアに対して反乱するも鎮圧される。
イオニア地方が支配されていることに対し、アテネも援軍を送っていた。そのため、ペルシアのダレイオス1世はギリシアへの侵入を開始する。これがペルシア戦争である。
ペルシア戦争の経過を簡単に整理すると以下の通りである。まず、ペルシア王ダレイオス1世の最初の派兵は暴風雨により失敗。第2回の派兵では、トラキア、マケドニアを征服してマラトンに上陸した。
マラトンの戦いでは、アテネの裏切者が城門を開けてくれることを期待していたものの、計画通りにいかず、またアテネは1万の重装歩兵を用意していたためアテネ軍が勝利する(この時、伝令がペルシア艦隊が来るより早く、アテネへ艦隊の来訪を走って知らせたことは、マラソンの起源として知られている)。

ペルシア戦争 引用元:世界の歴史まっぷ
こうしてギリシアのポリスは協力してペルシアに対抗し、それを退けることができたものの、ペルシアの侵略はこれで終わったわけではなかった。ギリシアも今後の侵略に備え、同盟を強化していた。
ペルシアからの第3回の遠征は、紀元前480年に行われた。新王のクセルクセス1世(ダレイオス1世の子)は、20万の軍を率いて侵略してきたのである。ギリシア側は20程度の都市国家で同盟を組み、ペルシアからの降伏勧告も拒否して、戦闘に突入した。ギリシア側は当初、アルテミシオンの海戦に敗れ、テルモピレーの戦いではスパルタのレオニダス王を含む軍が全滅(これは「300」という映画にもなった)、アッティカ、ペルシアが支配されるなど苦戦した。ペルシアは支配したポリスに火を放ち略奪した。
しかし、ギリシア側はアテネのテミストクレスがサラミス湾の海戦でペルシア軍を迎え撃ち、三段櫂船を活用して勝利した。陸でもプラタイヤの戦いでアテネとスパルタの連合軍によってギリシア側が勝利し、小アジアでもペルシアに勝利、イオニア都市は独立を果たした。
こうして、オリエントの専制国家からポリス社会が守られたのである。
1-2:ペルシア戦争後のギリシア
こうしてポリスの連合によって強大なアケメネス朝ペルシアを破ったギリシアでは、アテネが強大な海軍力を背景にして、対ペルシア同盟であるデロス同盟の盟主となる。アテネはこの同盟をベースに、エーゲ海に支配を強めていくことになった。
一方、アテネの国内においては、軍艦の漕ぎ手として戦争に参加した無産市民の発言力が向上した。ギリシア(1)の記事でも説明したが、ポリス社会においては、富裕な市民は戦闘に参加することで政治参加を認められるようになっていた。そのため、船の漕ぎ手として防衛に一役買った無産市民も、戦闘の功績を背景に政治参加を主張していったのである。この動きから、将軍ペリクレスによる働きで、アテネの民主政の完成に繋がったのであった。
アテネの民主政は他のポリスにも波及していったことが分かっている。
このように、アテネでの民主政の発展と戦争による対外的な勝利、支配の強化は密接に結びついた現象であったと言える。
1-3:ペロポネソス戦争
繰り返しになるが、アテネはペルシア戦争後のデロス同盟をベースにしてエーゲ海への支配を強めようとした。しかし、デロス同盟にはギリシアのポリスのすべてが加盟していただけではなかった。同盟に加わらなかったコリント、スパルタというポリスはアテネの強大化に脅威を感じ、戦争に突入する。これがペロポネソス戦争である。ギリシアはアテネを中心としたデロス同盟と、スパルタを中心としたペロポネソス同盟とに二分して戦争をした。
ペロポネソス戦争は、はじめはアテネが優勢だったものの疫病によって人口の3分の1を失い、アテネを指導したペリクレスも死亡し劣勢になっていく。アテネではデマゴーゴス(扇動政治家)と言われる、商人などの政治家が戦争を長期化させ、また無謀な遠征を行うなどの失敗からアテネは敗北した。

ペロポネソス戦争 引用元:世界の歴史まっぷ
勝利したペロポネソス同盟側のスパルタはギリシアの覇権を握り、他のポリスを圧迫するようになる。しかし、スパルタが強大化することを危惧したペルシアはアテネを支援し、アテネは復興していき、またペルシアの強大化を危惧したテーベが勢力を拡大し、ギリシアではアテネ、スパルタ、テーベの三すくみとなった。テーベはレウクトラの戦いでスパルタを破り、スパルタ領の一部を支配し、勢力は転換する。しかし、テーベの勢力拡大に反発したポリスにより、テーベも衰退する。
このように、ギリシアはペルシア戦争、ペロポネソス戦争を経て絶え間ない抗争、混乱の時代に入った。
1-4:ポリスの変容
また、こうした戦争による荒廃によって、ギリシアの各ポリス内の社会も変容していく。
アテネでは、前述のようにデマゴーゴスが続出して衆愚政治に陥った。つまり、商工業者や商人が政治家として大衆迎合的な政治を行ったことで、政治が堕落していったのである。また、ポリス間の絶え間ない戦争で農業は荒廃し、一方で貨幣経済が浸透したために貧富の差が拡大し、市民層が没落していったのである。
従来、ギリシアのポリス社会では市民が自ら戦争に参加し、共同体的な意識を持って政治参加する形態だった。しかし、このように市民層が没落していったことから、傭兵制が発達していった。
さらにこの時代の大きな変化としては、ギリシア文明が隆盛と共に混乱していくのに対して、辺境の未開な国家だったマケドニアが成長していったこともある。ここからマケドニアの歴史に入ることになるが、その前にギリシアの非常に重要な側面に触れておかなければならない。それが文化、学問の領域である。
2章:ギリシア文化と学問
ギリシア文化は世界史上、非常に重要な文化である。ギリシア文化からヨーロッパの文化は非常に大きな影響を受けているし、ギリシアからすべての学問が始まったと言っても過言ではないからである。
2-1:ギリシアの文化
ギリシアの学問や文学、芸術はすべて、当時のギリシア人の信仰や性格によって規定されていた。ギリシア人の性格は、地理的特性(海洋文化、明るい乾燥地帯)や社会(平等な共同体)の特性からも影響を受け、明るく合理的な性格だったとされる。オリエントやミケーネの文明から影響を受けつつも、あらゆる領域で独自の文化を開花させた。
まず、ギリシアの宗教は多神教であり、それぞれのポリスが守護神を持っていたものの主神をゼウスとしたオリンポス12神を信仰していた点で共通していた。また、さまざまな民族、共同体の神を体系に組み込んできた歴史から、他にもさまざまな神が信仰されており、神々は人間的な性格を持っていたことが特徴的である。人間的で、善行もすれば悪行もするようなものであり、次第に神の体系、教義からは世界のことが説明できないと感じた人々によって、哲学が生み出されることとなった。
ギリシアでは、文学も発達した。簡単に紹介するにとどめるが、現代でも古典として学ばれるものがこの時代多数作成されている。
■叙事詩
- ホメロス「イリアス」「オデュッセイア」
- ヘシオドス「労働と日々」
■叙情詩
- サッフォー(女流詩人)
■悲劇:アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピテス(三大悲劇詩人)
■喜劇:アリストファネス「女の平和」「女の議会」
芸術も発達し、彫刻ではフェイディアスのアテナ女神像(パルテノン神殿の中)が有名である。

アテナ女神像(のローマ時代のコピー) 引用元:Wikipedia
2-2:ギリシアの学問
前述のペルシア戦争やペロポネソス戦争は、ギリシアの歴史家たちによって記録された。ヘロドトスの「ペルシア戦争史」、トゥキディデスの「ペロポネソス戦争史」である。現代人は、これらの歴史書を手掛かりに古代ギリシアで行われた戦争について知ることができるのである。

ヘロドトス 引用元:Wikipedia
さらに、古代ギリシアでは豊かな哲学、自然哲学が花開いた。
この時代、ギリシアで学問が花開いたのは、古代オリエントに比べて平等で余裕ある生活ができる市民層が成長したからだと考えられる。古代オリエントは強力な専制君主の元で、軍事的に支配された広大な国家を作ったことが特徴だった。このような国家は、絶え間なく他国を支配したり、統治のために軍事行動をしなければならず、また君主など一部の人間以外は、権力を持たなかった。
したがって、世界を客観的に認識して説明しようとする余裕がなかったのである。
一方、ギリシアもペルシアやポリス同士での戦争を行っていたとは言え、政治参加できた市民階級は政治的な議論をしたり、奴隷によって生活を支えられて自然を探求することができた。このように権力を持ち、労働から解放された一定数の人々が生まれたことから、学問を行う余裕ができて哲学が花開いたのである。
これは、現代の学校を意味する「スクール」が、古代ギリシアにおける暇を意味する「スコレー」から生まれたことからも明らかである。
こうして、さまざまな条件に支えられて、古代ギリシアでは学問が花開くのである。
詳しくは、下記の記事で解説しているが、紀元前7世紀ごろから古代ギリシアの哲学の歴史がはじまる。その後、ローマ時代になると実用的学問や技術が重視され、再び学問の時代ではなくなっていくが、その後の哲学はキリスト教の神学と共に議論されていくのである。
参考文献
木下康彦、木村靖二、吉田寅(編)『詳説世界史』山川出版社
『地域からの世界史(10)地中海』朝日新聞社
マクニール『世界史』(上)中公文庫