ギリシア(1)古代地中海世界・古代ギリシア
古代オリエントからはじまる世界史の中心は西方に移行し、ギリシアが世界史の中心となっていく。はじめて中東全土を支配したアケメネス朝ペルシアは、マケドニアのアレクサンドロス大王によって滅ぼされ、それ以降ギリシアからローマへと地中海中心の文明の歴史が描かれる。
ギリシア・ローマ文明が世界の中心だったのは、北方ヨーロッパが台頭するまでの期間であった。しかし、その後のヨーロッパ文明の直接の起源となった上、ヨーロッパ文明を通じて世界の歴史や学問、文化に多大な影響を与えたという点で、非常に重要な時代であることは間違いない。
ここではギリシア文明の始まりを解説する。
目次
1章:エーゲ文明
ギリシアの歴史は、ミノア文明、クレタ文明(前期エーゲ文明)、ミケーネ文明(後期エーゲ文明)を経て、都市国家の成立からギリシア人の歴史が始まる。そこで、まずはギリシア文明以前の、エーゲ文明から説明する。
ギリシア文明以前のギリシア世界の歴史をエーゲ文明とまとめて言うが、これはギリシアと小アジア半島に囲まれたエーゲ海を中心とする文明のことである。この地域の人々は複雑な海岸線で交易を行っていたため、隣の街と交易するために近い距離に多数の都市が作られ、文明として発展した。
文明は気候、風土といった地理的な制約を受けて発展するため、まずは簡単にこの地域の気候から説明していく。
1-1:ギリシア世界の気候
エーゲ文明が現れたのは、地中海とその沿岸である。
地中海沿岸はどこも夏が長く乾燥しており、冬はそれほど寒くなく多湿、雨は秋から冬にかけて集中的に降る気候である。地理的には、平野がなく、よって大河もなく、山地が海岸まで迫るような土地がほとんどで、土地は乾燥していて肥沃ではない。これは、オリエントとは大きく異なる特徴である。
こうした地理的な制約から、オリーヴ、ブドウ、イチジク、牧草といった果樹の栽培や、羊、山羊の飼育に適していた。一方、大規模な灌漑農業を行うことはできないため、膨大な人員を使って灌漑工事を行う機会はなく、よって強大な専制君主や被支配される奴隷も生まれなかった。したがって、この地域では独立・自営的な小規模な農業が行われ、王や貴族と平民が比較的平等な共同体が生まれた。
また、陸の交通の難しさから航路を利用した交易が活発になり、海を媒介にする交易が文明の特徴となった。こうした気候や地理的特徴は、その後のギリシアの文明を大きく規定したのである。
1-2:クレタ文明
繰り返しになるが、古代ギリシア文明の前にはクレタ文明、ミケーネ文明といういわゆるエーゲ文明が存在した。これらの歴史は、考古学的な発見によって明らかにされてきた。
1-2-1:考古学的発見
その発見をもたらした一人が、ドイツ人のシュリーマンであると言われてきた。シュリーマンは、神話上の出来事と考えられていたホメロスの歴史を明らかにしようと考えて独自に発掘調査を行ったのである。シュリーマンは、もともと学者ではなかった。若いころに貧困を味わったものの自ら労働し、困窮しつつもいくつもの語学を収め、商業的に成功した後に、発掘調査を行ってミケーネ文明を発見した。
シュリーマンは「トロイの木馬」で知られるトロイアを発見したと信じたものの、それは実はトロイアより1000年も昔のアナトリア人の遺跡であることが分かっている。
シュリーマンの生涯は、自伝『古代への情熱』で明らかにされている(ただし、シュリーマンの功績については、現在では諸説ある)。
その後イギリスのエヴァンズがクレタ文明を明らかにし、ギリシア人以前にも文明が栄えていたことが分かったのであった。
1-2-2:クレタ文明(前期エーゲ文明)
エーゲ海は、西に小アジア、東・北にマケドニア、南にクレタ島がある陸地に囲まれた海の事である。クレタ文明は、この地域で生まれた文明だった。紀元前3000年ごろ、アナトリア(小アジア)方面から移住してきた青銅器技術を持つ人々が、いくつかの小王国をこの地域に打ち立てたのが、クレタ文明の直接の契機であった。

ミノア文明(クレタ文明) 引用元:世界の歴史まっぷ
彼らの民族は明らかになっていないと思われるが、紀元前1900年ごろにはクノッソス、ファイストス、マリア、カト・ザクロ、ハギア・トリアダなどに宮殿が建設されていることが明らかになっている。
クレタ文明の中心はクノッソスであり、クノッソスは紀元前2000年頃にクレタ島を統一しクレタ島の90の都市を支配したとされている。クレタ文明は、線文字Aを発明したものの、それはいまだに解読されていないし、クレタ文明を作った人々がどの民族なのかもまだわかっていない。

クノッソス宮殿 引用元:Wikipedia
クレタ文明は、豊かな文明を花開かせており、写実的で開放的な海洋文明だったと考えられている。戦いを好まず、王宮には防御壁などもなかった。
前述のように、この地域の文明はオリエントほどは専制君主の支配が強くなく、地理的特徴から解放的な文明を築いたと考えられる。
1-3:ミケーネ文明
紀元前2000年より前に、小アジア、バルカン半島にインド=ヨーロッパ語族のギリシア人の祖先にあたる人々が移住してきた。この移住時期ややってきた方面には諸説あるが(『地域からの世界史 地中海』28頁)、だいたいこのこの頃に移住してきた人々がミケーネ文明を築いた。

ミケーネ文明 引用元:世界の歴史まっぷ
もともと、小アジアからギリシアにかけて先住民がおり紀元前4000年紀には青銅器文化が始まっていた。これをヘラディック文化という。この地でもオリーブの栽培が行われ、また権力者のものと見られる建造物が紀元前2600年頃から生まれている。しかし、この先住民の社会は、移住してきたインド=ヨーロッパ語族のギリシア人によって侵略されたのである。
ミケーネ文明の中心はミケーネやティリンスで、彼らはクレタ文明の人々と違って好戦的で軍事的な特徴を持っていた。そのため、クレタ文明と違って城塞、王宮を築いたことが分かっており、これはシュリーマンによって発掘された。ミケーネはトロイアやクレタも占領した。
ミケーネ文明は非常に繁栄したことが考古学的発見から分かっており、大量の青銅器や武器、陶器、黄金製品などが王の墓から発掘されている。また、ミケーネ人はクレタ人にならって線文字Bを発明したことが分かっており、線文字Bからミケーネ文明の王が巨大な権力を持って支配したことが知られている。

ミケーネの獅子門 引用元:Wikipedia
ギリシアの社会は地理的制約から、オリエントのような強大な専制国家にはならなかったが、ミケーネ文明は軍事的性格や権力の大きさから、専制国家に近いものであったと考えられる。
1-4:エーゲ文明の終わり
このように強大だったミケーネ文明も、紀元前1300年頃から衰退し紀元前1200年から1100年ごろには、侵入してきたドーリア人や海の民によって滅ぼされていった。かつては繁栄を謳歌したミケーネ文明の人々は文化的生活を失い、周辺地域に四散していった。この混乱の時代は400年も続き、「暗黒時代」と言われる。
なお、こうして四散していったギリシア人の祖先らは方言の違いから分化し、イオニア人、アイオリス人などになった。
こうしてクレタ文明、ミケーネ文明のあとに新たな時代が始まり、やがてギリシア文明へとつながっていく。
2章:ポリスの成立
暗黒時代、ギリシアでは何の発展もなかったというわけではない。この時代にすでにギリシアの次の文明が発展する準備が行われていたのである。暗黒時代のギリシア世界には、鉄器の普及、アルファベットの発明などの歴史的な発展があったのである。
それだけではない。この時代の社会は、その後のポリス(都市国家)の成立と密接につながっている。
2-1:都市国家の形成
ホメロス『イーリアス』によると、暗黒時代のギリシア世界では、王は強力な権力を持たず貴族らの有力者が戦闘を担い、一族を率いていたとされている。人々は移住する生活の中で軍事的な強さを持つ貴族らに率いられていったが、一方で貴族の裁判で判決を下す力は持っていたようだ。
ミケーネ文明から移動してきた一族らは、紀元前8世紀ごろになるとギリシア、小アジア西岸あたりに、貴族の指導のもとアクロポリス(城山)を中心に壁を築き、集住(シノイキスモス)するようになる。これたポリスのはじまりである。丘の上に宮殿、ふもとにはアゴラ(政治や経済の場)が作られた。

アテネのアクロポリス 引用元:Wikipedia
さらに人口増加、土地不足、商業交易野必要性から植民活動を展開し、地中海沿岸に植民市を建設していった。その植民市は小アジア、黒海沿岸、北アフリカ、南フランスなど広範囲に及び、下記のような有名な都市も建設したのである。
- ビザンティオン(今のイスタンブール)
- ネアポリス(今のナポリ)
- マッサリア(今のマルセイユ)
植民活動で植民市は増え続け、最大で1500ほどの都市があったとされている。
2-2:ポリスの社会
こうしてできたポリスでは、政治参加できるのは男子市民で市民の多くは奴隷を所有していた(奴隷は市民ではないため政治参加できない)。貴族と平民の違いはあったものの、ともに自由民と言われ市民は政治参加が可能だった点で、オリエント的な専制国家とは異なる。ギリシア人は市民=戦士の共同体としてポリスそれぞれで独立した意識を持っており、宗教的にもポリス市民は共同意識を持っていた。それは、古代オリエント社会で都市ごとに守護神が信仰されたのとも共通する。
とは言え、ギリシア人は都市国家ごとの共同体意識だけでなく、ギリシア人としての意識も強く持っていた。ギリシア人は自分たちを「ヘレネス」と呼び、一方で異民族は「バルバロイ」といって差別していたのである。
ギリシア(ヘレネス)人同士は信仰や慣習について共通したものを持っており、ギリシア人はオリンポス12神の信仰や、デルフォイの神託(アポロン神に神のお告げを聞く)を祭祀として守っていた。また、オリンピア競技(ゼウス神にささげる)などの文化を共有し、仲間意識を持っていたのである。
ギリシア人同士の意識が生まれる一方で、異民族差別は行われた。同じギリシア人同士は「ヘレネス」というものの、異民族は「バルバロイ」と言って区別した。
2-3:ポリス社会の発展と特徴
こうして成立したポリス社会は、それまでの他の文明社会とは異なる特徴を持つようになった。
それは、貴族の権力の強さや、戦時には貴族が自ら戦いの中心となったこと、商業が活発に行われたことなどである。貴族が強い権力を持っていたのは、彼らが自分で武器を持ち、市民を守るために戦いの中心になったからである。
しかし、商業の発達に伴って経済活動が活発になり、平民の中に貧しくなるものと富裕になるものが生まれていった。富裕になった者は、自ら武器を取得して戦いに参加することができるようになった。また、こうした背景から戦闘方法も変わり、一騎打ちではなく重装歩兵密集隊(ファランクス)という戦法が取られるようになった。

ファランクス 引用元:Wikipedia
こうして、平民らはさらに戦士としての仲間意識を強め、また自分たちも戦士として市民を守っているという意識から政治参加を求めるようになる。こうした背景から、古代ギリシアでは民主主義的な政体が生まれていったのであった。
古代ギリシアにおける政治社会の形成を見るには、スパルタ、アテネという主要なポリスについて理解する必要があるため、これから説明する。
3章:アテネ
ポリス社会の一般的特徴を説明したが、特にその歴史が明らかになっているのが、ヘロポネソス半島に位置したアテネとスパルタである。まずはアテネから説明する。
アテネはミケーネ文明の時代、王国の1つでありイオニア人のポリスであった。
3-1-:貴族政
アテネはもともと王制だったが、貴族の勢力が台頭したことから王政から貴族制に移行した。貴族制のもとではアルコンと呼ばれる役人が選ばれて統治(任期1年)し、貴族が政治、軍事職を独占する時代が続いた。
しかし、貴族の政治、軍事職の独占の一方、商工業の発展によって富裕な市民が生まれ、前述のように重装歩兵戦術が生まれたことで平民も軍事参加して地位を高め、政治参加を求めるようになった。したがって、貴族と対立するようになる。こうして、徐々に貴族政から民主政が求められるようになっていく。
3-2:成文法の成立・財産政治
貴族が権力を独占していることから、まずは貴族の権力を抑制する必要があった。そこで、紀元前7世紀にはドラコンが現れ、貴族らの慣習法を成文法にし貴族の法、政治の独占を防ぐ仕組みを作った。
一方、アテネの内部では商工業の発展に伴う平民の格差が問題化するようにもなった。紀元前6世紀はじめごろ、貨幣経済の浸透という要因もあり、借財によって自由を失う農民(ヘクテモロイ)が登場した。中には奴隷化する者すらいた。
奴隷化した市民を政治参加させるわけにはいかない。そこでアルコンとなったソロンは、市民市民を4段階に分け、財産の多少で参政権を与える、負債を帳消しにして債務奴隷を禁止する、といった財産政治を行った。
このように、紀元前6、7世紀頃のアテネでは貴族と平民の対立はありつつも、平民にも一定の自由や政治参加が認められつつあったのである。
3-3:僭主政から民主政の完成
その後、アテネでは貴族と平民の対立を経て、直接民主政が完成することになる。
ドラコンによる成文法の成立やソロンによる改革もあったが、貴族と平民の対立は緩和させるどころか激しくなっていき、貴族のペイシストラトスは紀元前6世紀、中小農民に保護的な政策を行い、農民たちの支持を得て貴族政を廃止し、独裁政治を行った。これを僭主政と言う。僭主政とは、非合法に政権を取り独裁者として暴君的になることを言うが、アテネの僭主政は30年以上続いた。ペイシストラトスは、中小農民の保護策だけでなくアテネでの神殿の建設や宗教的祭祀を盛んに行うなどの政策も行った。
ペイシストラトスの子も独裁を行ったが追放され、紀元前508年頃にはクレイステネスが民主政治の基盤を作った。平民の支持を得て民主的な改革を行い、僭主の出現を防ぐために逆投票し、追放する人を選ぶ陶片追放(オストラシズム)を行ったことで知られる。
この頃、アテネは対外的には他のポリスに支配権を及ぼすようになっていたが、国内では引き続き民主的な改革が進められた。
クレイステネスの後、紀元前5世紀ごろはペリクレスが登場し、ペリクレスがアテネの直接民主政を完成させたと言われている。ペリクレスは、成年男子市民が全員参加する民会で政治を運営する、将軍職以外の役職はくじで公平に選ばれる、といった民主政治を完成させた。
とはいえ、現代の民主政治と同じだったというわけではない。政治参加できるのは参加できるのは貴族と平民のみ(合わせて市民)であり、子ども、女性、奴隷、外国人は参加できなかったのである。貴族制からは大きく変化したし、オリエントのような専制政治と比べればまったく異なる政治体制ではあるが、すべての人に権利が認められていたわけでは当然なかった。
このように、アテネは途中僭主政を挟みつつも、貴族制から民主政治へと変化していくとともに、対外的には支配を及ぼすようになっていったのであった。
4章:スパルタ
スパルタはドーリア人のポリスである。
そもそもスパルタは、紀元前1000年ごろにドーリア人がヘロポネソス半島の先住民を侵略し、ポリスを作ったのがはじまりであった。スパルタ人は少数だったが、広く侵略し複数の民族を支配する必要があったことから、厳しい軍事国家となった。スパルタの軍国主義的規律は、リュクルゴスという立法者によって作られたと考えられている。
スパルタの社会は、スパルタ人のみが市民として認められ、彼らは完全に支配者だった。王もいたものの貴族政であり、市民は政治と戦闘のみを担い、農業などは隷属農民に行わせた。スパルタ人は支配した民族の人口と比べると少数であり、市民5000人に対し、ペリオイコイ(異民族で商工業者)が2万人、ヘイロータイ(隷属農民)が5万人という人口構成だったとされている。
これほど少数の人口で、反乱を起こさないように統治しなければならなかったため、極端な軍事国家となったのである。市民は絶え間なく鍛えており、戦士的な市民意識を持っていた。また、軍事国家であったため文化はすたれ見るべきものはなかった。
以上が、エーゲ文明からギリシア文明が成立していった初期の歴史である。
まとめると、そもそも古代世界ではオリエントが文明の中心で、西方世界は辺境だった。地中海沿岸部は、広い平地が少ないこと、乾燥地帯であること、海に囲まれていることといった地理的特色から、灌漑農業よりも果実を中心とした農業が営まれ、クレタ文明、ミケーネ文明といった小規模な共同体による社会が中心の文明が形成されていった。クレタ文明の詳細は謎である部分も多いが、ミケーネ文明は線文字Bが解読されており、ギリシア人の祖先の文明であったことが分かっている。しかし、ミケーネ文明も移住してきたドーリア人や海の民らと思われる侵略者によって滅ぼされ、四散する。四散して移住生活を行っていたころの時代を暗黒時代と言うが、この間、ギリシア人らは貴族を中心とした比較的平等な共同体を構成し、そこにはポリス(都市国家)の萌芽があった。ヘロポネソス半島に移住してきたギリシア人の一部はアテネにポリスを築き、民主的な社会を作っていく。一方、移住してきたドーリア人によって作られたスパルタは、侵略の手を広げ反乱を抑えるために強力な軍事国家となり、この2つの国家を中心に、その後の古代ギリシャの歴史が作られていったのである。
参考文献
木下康彦、木村靖二、吉田寅(編)『詳説世界史』山川出版社
『地域からの世界史(10)地中海』朝日新聞社
マクニール『世界史』(上)中公文庫
小林登志子『古代オリエントの神々-文明の興亡と宗教の起源-』中公新書