古代オリエント(3)シリア・パレスティナ
古代オリエント世界でも、東地中海世界について論じることは現代の世界を論じる上でも非常に重要である。東地中海には、シリア・パレスティナという現代でも争いが続く地域が存在するからである。
1章:アラム人
そもそも、シリア・パレスチナ地方は、地理的に言えば海と砂漠に挟まれた複雑な地形であり、メソポタニアやエジプトのような巨大な統一国家が成立しにくい土地だった。一方、強大な国家に挟まれた交通の要衝であったため、思想、文化は独自に発達した。
東地中海には、紀元前3000年頃からセム系民族が移住していたと考えられる。紀元前2000年記前半ごろにはカナーン人が活躍した。その後、周辺にヒッタイト、エジプト、アッシリアといった強大な国家が成立し、シリア・パレスティナはその勢力争いの舞台となる。その後、紀元前1200年頃に「海の民」が侵入し、甚大な被害をもたらし、ヒッタイト、エジプトの勢力が後退、海上の文明(クレタ・ミケー文明)も崩壊した。海の民とは、それほど強い民族だったのである。
しかしその結果、セム系民族が移動するきっかけになり、アラム人、フェニキア人、ヘブライ人というセム系の3民族が独自の活動をした。
アラム人はシリア地方の陸側にいた人々である。遊牧民として移住し紀元前2000年紀半ばごろに定住した。彼らは、シリア内部の都市ダマスクスをはじめとする都市に小国家を建設し、特に内陸交易で活躍した。
紀元前8世紀にアッシリアの侵略を受けて独立を失うも、その後も商業活動を盛んに行ったことが知られている。
アラム人のこの活動として特筆すべき点は、アラム語の影響である。アラム人が用いたアラム語は、商業活動を通じてオリエント世界に広がり、国際商業語として共通語となったのである。アッシリアやアケメネス朝ペルシアもアラム語を採用し、メソポタミアにかけての地域でもアラム語が広がった。キリストもアラム語を使っていたとする説がある。
2章:フェニキア人
シリアの内陸にいたアラム人に対し、シリアの海側にいたのがフェニキア人である。
フェニキア人は、クレタ・ミケーネの勢力が海の民によって衰退させられた後に、地中海貿易を独占した。また、地中海沿岸にシドン、ティルスといった都市国家を築いて、交易のためにカルタゴ(北アフリカ)をはじめとする植民都市も建設した。海上貿易で栄えたフェニキア人の勢力は、一時は太平洋、インド洋にも及んだとされる。

フェニキア人の航海路 引用元:Wikipedia
紀元前7世紀にはアッシリアに侵略され、新バビロニア・アケメネス朝ペルシアに支配されるも、海上貿易は活発に続けられ、また海軍としてペルシア戦争でも戦った。

フェニキア人の船 引用元:Wikipedia
フェニキア人の功績は、アルファベット創始に強く関わったことにある。もともとシリア・パレスティナ地方に住んでいたカナーン人(カナーン人の一部がフェニキア人になったと考えられている)は、エジプトの象形文字からアルファベットの元になる文字を作り出した。フェニキア人はそれを線状の文字に作り替えた(フェニキア文字)。そのフェニキア文字がギリシアに伝わり、アルファベットになったのである。そのため、フェニキア人は現代の文明に大きな影響を与えているとも言える。
3章:ヘブライ人
東地中海世界には、主にアラム人、フェニキア人、そしてヘブライ人が国家を作り文化を生み出した。世界史的にもっとも重要なのがヘブライ人である。ヘブライ人や一神教の大本であるユダヤ教を創始したからである。
3-1:出エジプト
ヘブライ人の起源について聖書ではアブラハムとされている。アブラハムは、メソポタミアのウルから移動し、砂漠で遊牧生活をして、カナン、そしてパレスティナに到達したとされる。つまり、ヘブライ人の祖先は遊牧民であり、紀元前2000年紀の前半にパレスティナ地方に移動したと考えられている。
しかし、一部のヘブライ人はヒクソスの移動と一緒にエジプトに入ったと考えられる。古代オリエントや古代エジプトの記事でも説明したが、ヒクソスはシリア方面の遊牧民で紀元前17世紀初頭にエジプトに侵入。紀元前1650年頃、第十五王朝(ヒクソス王朝)を打ち立てた。ヒクソスはエジプトを1世紀以上支配したものの、紀元前16世紀にはエジプトの王朝が復活(エジプト新王国)し、ヒクソスは追い出された。

エジプト第七の災い”、ジョン・マーティン、1824年 引用元:Wikipedia
エジプト新王国に支配され、圧政に苦しんだヘブライ人は、エジプトを脱出してパレスティナを目指した。これが「出エジプト」である。モーセに率いられて数々の苦難を乗り越えてパレスティナのかつての同胞と合流することができたのであった。モーセは十戒を授かり、これがユダヤ教という一神教の大本となる宗教になった。

モーセの十戒(レンブラントの絵画) 引用元:Wikipedia
後に述べるように、出エジプトの苦難から生まれた信仰がユダヤ教として発展していくことになる。
ヘブライ人らは、12支族の連合体であり1人の王が恒常的に存在することはなかった。しかし、海の民の一派ペリシテ人との争いに対抗する必要から王を立て、紀元前11世紀から王政になった。
3-2: ヘブライ王国の成立
紀元前11世紀に生まれたヘブライ人による王国、ヘブライ王国は、2代目ダヴィデ、その息子ソロモン王の頃が最盛期であった。都はイェルサレムであり、海外との交易を行い、統一的な国家としての発展のために、常備軍の設置、神殿の建設などにも積極的に取り組んだ。しかし、こうした国家事業のために重税が課されたため、国民は疲弊した。
さらに、ヘブライ王国はソロモン王の死後分裂し、さらに弱体化することになる。
3-3:ヘブライ王国の分裂
ソロモン王の死後、ヘブライ王国はイスラエル王国(北部)とユダ王国(南部)に分裂した。イスラエルはアッシリアのサルゴン2世に支配され、ユダ王国は新バビロニアのネブカドネザル2世に支配された。

ヘブライ王国 引用元:世界の歴史まっぷ
イスラエルの人々は、中東の中に分散し埋もれていった。
ユダヤ人の歴史は被支配の歴史とも言えるが、分裂後のユダヤ人らの多くは強制的に移住させられ、ここでも苦難の歴史があった。特にユダ王国の人々は新バビロニアによって連行され「バビロン捕囚」として知られる。
3-4:ユダヤ教の成立
ユダヤ人は、出エジプトやバビロン捕囚など古代から被支配的立場で苦難を味わってきており、その民族的苦難が一神教であるユダヤ教を生み出した。
3-4-1:ユダヤ教の教義
ユダヤ教は、唯一神ヤハウェを信仰する宗教であり、これは苦難の中で人々の心を一つにするために求められたと考えられる。
ユダヤ人の疑問は、なぜ自分たちだけに神はこんな苦難を与えるのか?ということであった。そこで、ユダヤ人は2つの教義を生み出した。1つは、苦難は人間側がこれまでに神を怒らせるような行為をしたからであり、自分たちはもっと聖書に従わなければならないということ。もう1つは、神は信仰を試すために試練を与えているのであり、それに耐えた人が「最後の審判」で救われるのだ、というものであった。
ユダヤ人らは苦難の中で信仰を強くし、そして苦難があっても自分たちこそが救世主(メシア)に救われるのだ、という排他的な選民思想を持つようになった。つまり、苦難に耐えればユダヤ人だけが救世主から救ってもらえるということである。
3-4-2:ユダヤ教の儀式
また、まだヘブライ人らが政治的に独立できていたころからユダヤ教の教典である『旧約聖書』の編纂もはじまり、伝説や神への賛歌、予言の言葉などが記された。
前述のようにヘブライ人らは、ヘブライ王国の樹立によって一時期政治的に独立したが、この時、ヘブライ人らのヤハウェ信仰は宮殿の儀式が主であった。その後、ヘブライ王国分裂後は、イスラエルの人々は中東の中に分散していくも素朴な信仰を守りサマリア人と呼ばれた。
一方、ユダ王国の人々は、編纂した『旧約聖書』を持ってバビロンに追放され、そこでも信仰が続けられた。しかし、それはサマリア人とは異なり、信者がラビ(教師)のもとに集まって、『旧約聖書』の説明を聞くことが中心的な行為となった。それは、移住させられて以前のように神殿で礼拝することができなくなったためである。
ユダヤ人らは、異民族の中で文化に馴染みながら生活したものの、信仰は守り続けていった。聖書の説明を聞く集会が儀式的な行為となったことで、どこでも信仰を続けることができるようになった。
また、ラビ(教師)は聖書をもとにしつつも、日常的に降りかかる様々な問題に応える掟を作り、信者らに伝えていった。こうして、ユダヤ教の教義が精緻化されていき、信仰の薄れていた古代中東の都市の中に浸透していったのである。