ジブリ作品を鑑賞(2020年6月・7月)

2020年6月~7月にかけて、映画館でジブリ作品の4作(もののけ姫、風の谷のナウシカ、千と千尋の神隠し、ゲド戦記)が公開されていたため、ゲド戦記以外だけ鑑賞した。3作品ともテレビでは何度も観たことがあったが、映画館で鑑賞したのは初めてだったため感動した。

1:風の谷のナウシカ

風の谷のナウシカが一番感動した。幼い頃に観た以来だったため、大まかなストーリーは覚えていても細かい設定は知らなかった。

概要

風の谷の小さな都市国家の姫であるナウシカは、独自に腐海のメカニズムを研究し共生する道を探っていた。あるときトルメキアの巨大飛行機が墜落し、眠っている巨神兵が運ばれてきてしまう。そこにはペジテという都市国家の姫も乗っていたが、亡くなってしまう。巨神兵はトルメキアが帝国拡大のために利用しようとしていたもので、すぐにトルメキアの軍を率いてクシャナがやってくる。クシャナは動かせない巨神兵をこの場で目覚めさせ、腐海の森を焼き尽くして人間の生きられる地を作ろうと考える。ナウシカはクシャナからトルメキアに運ばれることになるも、途中でペジテのアスベルに襲われ、腐海に墜落する。そこで、腐海の仕組みを知る。アスベルとペジテに行くもペジテは王蟲によって崩壊しており、ペジテの生き残りらと出会う。ペジテの生き残りによると、彼らが王蟲を動かして都市を崩壊させたことが分かる。そして、風の谷にもすでに王蟲の群が向かわされていることが分かり、ナウシカはそれを止めに行く。ナウシカは命をかけて王蟲を止め、一度は命を失うかに見えたが、王蟲らによって救われ王蟲は腐海に帰っていく。エンディングでは、ナウシカを中心に和解したペジテの人々や帰っていくトルメキア軍の姿が描かれる。

腐海の仕組みはあまり描かれないが、漫画では核戦争によって世界を荒廃させた過去の人々が地表を浄化するために作ったのが腐海であり、ナウシカらは地表が浄化されるまでに世界を守るために作られた人間だったように思う。映画で描かれるのは途中までである。

感想

もののけ姫は虫と意思疎通でき、虫や腐海と共生しようとする境界的な存在で、それが人間を救うことになる。批評などの知識を持たない自分は、直感的な感じ方しかでいないが、作品中で最もピュアで敵から父親を殺されても人間も虫も救おうとする高潔さに感動した。自然が、人間がどうすることもできない大きな存在として描かれていることも、特徴的であったと感じた。

2:もののけ姫

もののけ姫は子供の頃に一番観たし強い印象を受けていたが、これも細かい設定は日本史の知識を得た今だから理解できた。

概要

大和政権からの支配を逃れて東北の僻地に暮らす蝦夷の一族は、ある時タタリ神から村を襲われてしまう。彼らは古代の伝統を引き継ぎ、自然と共生してきた人々である。タタリ神に呪われたアシタカは、呪いを解くために村を出て西方に旅をする。旅をする中で、舞台が古代ではなく武士が存在する中世であることが明らかになる。アシタカはタタリ神の中にあった鉛の玉を作った場所を探し求め、エボシ御前がリーダーとして(権力を持つ統治者というより、人々から信頼され慕われる)製鉄し武器を作るタタラ場にたどり着く。タタラ場は自治的存在で武士勢力の支配も及ばない。ただし、武士はもちろん朝廷もジコ坊を通じて何らかの支配関係を作ろうとしている。製鉄のためには膨大な炭が必要であるため、近隣の原生林を伐採し山を荒廃させている。

一方、タタラ場が伐採する原生林には神々が住んでおり、神の頂点で生き物に命を与えたり奪ったりできるシシ神(ダイダラボッチ)、シシ神を守るモロ一族(狼)、乙事主とイノシシ一族(乙事主は九州から来ており、イノシシらは日本中のイノシシのリーダー)、猩々らが森を守ろうとする。タタラ場に滞在中、アシタカはタタラ場を襲いに来たもののけ姫を助けたことで森でシシ神やモロとのつながりを得る。ジコ坊は朝廷から派遣されており、シシ神を退治するためにタタラ場を利用しようとする。シシ神を退治するためにエボシ御前がシシ神の首を取りジコ坊が運ぶも、原生林の植物や動物の生命を吸収して巨大化したダイダラボッチに追いかけられる。最後は、アシタカともののけ姫によって首を返される。ダイダラボッチは生命を拡散させて周囲の山々には自然が生まれる。

感想

ナウシカと同じく、開発に対する共生が描かれていた。また、自然と人間の境界的な存在であるもののけ姫と、自然と共生してきた蝦夷のアシタカによって人間世界が救われるという点も同じであると感じた。蝦夷、朝廷、武士、職能集団(山の民、ジコ坊、タタラ場)といった勢力関係も、今回見て初めて理解できた。下記のページは非常に詳しく分析されていて参考になった。

「もののけ姫」の基礎知識

3:千と千尋の神隠し

前者2作に比べると、観たのが小学5年生くらい?の頃だったためかそこまで観たい気持ちがあったわけではなかったが、やはり映画館で観たかったため観に行った。

概要

家族と引っ越してきた田舎に引っ越してきた千尋は、両親と異界につながるトンネルを見つけて入り、両親は欲にかられて料理を食べてしまう。千尋はその奥に大きな建物を見つけるも、ハクに早く帰れと言われ、帰ろうとするも両親が豚になっており帰れない。再びハクに助けられ、この世界では働かないと動物にされるから働いてチャンスを待てと言われる。クモ爺のところに行くも、湯婆婆のところに行って契約してこいと言われて、湯婆婆のところまで辿り着き、しつこくお願いして仕事をもらい名前を「千」にされる(奪われる)。湯屋で仕事を始めると、持ち前の素直さで神を助け、湯婆婆からも評価される。一方、神だと思って招き入れた顔なしからも気に入られる。顔なしは湯屋内に侵入してカエルや人間を食べてしまい、金で誘惑してもっと食べようとする。しかし、千だけはその誘惑に乗らずに両親を助けることだけを考える。

同じ時、ハクが龍になって傷だらけになって帰ってきたところを救い出す。ハクは瀕死で、湯婆婆からは用済みだからと殺されそうになる。それを助けようとする千は、間一髪で起きたハクとクモ爺のところに行って、ハクが銭婆からとってきた印鑑を取り出す。また、ハクの体内にいた湯婆婆の呪いの虫も殺してしまう。ハクを助けられたのは、湯屋で助けた大物の神からもらった団子(?)のおかげだった。クモ爺から切符をもらい、ハクを助けるために銭婆のところに行くことにし、湯屋を出る前に暴れている顔なしにも団子を与え、食べた人間を吐き出させる。顔なしは気に入っている千について銭婆のところまで行こうとする。千は顔なしが湯屋にいるからダメになると知っており、顔なしは湯屋から出ると大人しくなる。海上を走る往路しかない電車にのって銭婆のところに行くと、銭婆から湯婆婆やハクのことを教えてもらう。銭婆は、ハクの呪いはもう解けていることや、この世界にはルールがあり守らなければならないことを教え、見送ってくれる。千は助けてくれた銭婆に感謝を行って、銭婆の家まできたハクの背中に乗って湯屋に戻る。途中で、ハクは千が昔溺れた川の神さまであることが思い出され、ハクは自分の名前を取り戻して、自由になる。湯屋では、湯婆婆から「どこブタが本物の両親かあてないと元の世界には戻れない」と言われるも、千は見事にあてて湯屋のみんなに別れを言って元の世界に戻る。

感想

ナウシカやもののけ姫と比べて、千と千尋は世界観のファンタジー要素が強く、独自の「ルール」があるなど、これまでの作品と異なる特徴的があると思った。また、千尋は世界を救うのではなく、あくまで自分の両親やハクを救うことを目的にしている点でも、前2作とは違う。千尋はただの小学生であるため、なにか強い力を持っているわけでも、大きなものを背負っている訳でもない。しかし、千尋はこの世界の他の人が打ち勝てない「誘惑」に勝てるという点で、大きな強みを持っていた。また、他の人が嫌がる汚れ神(に見えた神)にも必死で対応してすることで、その見返りにもらった団子がその後の展開を左右した点で、この千尋の姿勢も、ほかの人びとにないものであった。

「この世界では働かなければならない」「自分のことは自分でやらなければならない」というのも、千と千尋の世界で重要なコンセプトであったように思う。これを単純にこの映画のテーマと考えていいのかどうかわからないが、以前は気づかなかったこの映画のコンセプトに近いものだと感じた。やはりナウシカやもののけ姫の方が好きではあったが、映画館で見たことで感動したし本当に観て良かったと思った。

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