ここ数日で、『コロナ後の社会を生きる』『ナショナリズムの正体』『男はなぜ痴漢になるのか』の3冊を読んだ。他にも読んでいるが、息抜き・知識を広げるための読書として。
この3冊を読み、考えたのは日本社会の不寛容についてである。
コロナ自体については突発的な出来事だが、それが日本のさまざまな問題を浮き彫りにしものによっては改革を進めるきっかけにもなっていると思う。しかし、考えるべきはこうして浮き彫りになった問題の方である。
また、『ナショナリズムの正体』については近年の日本の世論の右傾化について紙幅を割いて論じられている。というか、それが問題意識となって対談されている本だった。ナショナリズムには上部構造(政治的思想)と下部構造(民衆の愛国心、郷土愛、伝統文化)があり、上部構造によって下部構造が利用される傾向がある。現代では、日中韓の各政府は、民衆のナショナリズムを利用したり、領土問題を利用したりすることで、ナショナリズムを喚起して国民統合に利用する(→国内の諸問題から目をそらさせる)ということを行っていると議論されていた。
これは、自分もよく理解できる。同時に、こうしたナショナリズムが蔓延してしまう背景には、経済問題(格差、福祉縮小、非正規雇用など)とその上で展開したさまざまな社会的な問題、そこから生まれる閉塞感などがあるのではないか、と感じている。これは、アメリカにおける保守の純化などを論じている『壁の向こうの住人たち』にも共通するものがあったと思った。
社会が抱える問題点について、『痴漢』の本の方でも思うことがあったため、ここに記録していく。
『男はなぜ痴漢になるのか』について
『男はなぜ痴漢になるのか』という本をkindleで読んでいる。
これは依存症に関する本だが、痴漢などの性癖が依存症になるのは、女性蔑視の社会的な規範やストレス過多の現役世代の生活があるという。また、毎日犯行しやすい環境が身近にあり(満員電車など)習慣化してやめられなくなってしまうという。こういう依存症は自分を含め誰にとってもまったく他人事とは言えないと思う。
ネットを中心としたSNS、スマホ、動画サイト、アダルトコンテンツなどは、今となっては誰でも軽く依存していると思う。身近にあり、いつでも使うことができ、刺激が得られるため、その行動自体でドーパミンが出るようになり、それなしでは生活できなくなる。自分を含め、そういう人は多いはず。そして、例えばネット依存であれば注意力散漫になったり視力低下、自律神経の異常など負の側面も多いというデメリットもある。
それなのに、社会的には半ば放置され個人の自制の問題とされているため、皆やめられない。企業はよりネットを使わせるようにシステム、デザインを工夫する。ネットを通じて有害な(現実から逸脱した)アダルトコンテンツを視聴し、認知をゆがませ犯罪に走る人も出る。ネット上のカルチャーとして、下ネタで読者の笑いを誘うことも多いが、そういう書き込みが横行し面白がられる背景にも、女性蔑視的な社会通念はあるのかもしれない。痴漢犯罪者も、犯罪者同士で掲示板で書き込みし、人の行動を読んで行動をエスカレートさせることもあるという。ネットが性犯罪の悪循環を生み出している面も間違いなくあるのだろう。
現代社会はストレス過多であり、そこからさまざまな問題が発生する(特に精神疾患や依存症。軽度の依存症は誰もが持っていると思われる:ネットなど。)ということは自明の事として語られるが、それはなぜなのだろう。
貧困、低成長、福祉縮小、第三次産業化(サービス産業・知識産業の割合の増加)、学歴社会、中間組織の崩壊や個人化、旧来の価値観から新しい価値観への移行(過渡期?)、そのような社会構造的な変化の上での排外主義、競争主義、成果主義などの横行。こういったことがあるのだろうが、ではどうしたら社会が変わるのか誰にも分からない。
日本のストレス社会、いきづらさについて
ただ、社会の閉塞感、生きづらさ、ストレス過多などの原因の1つに間違いなく社会的規範(こうあるべき)があるはずで、それは男性社会的なものだと直感的に感じている。
男性的な競争主義、弱みを見せない、弱い人を叩く・見下す、そういう社会通念があるため社会が変わらないのではないかと。それは、特に若いうちや、体育会系の世界で自分も感じたものだったが、社会人になってからも会社員の世界でも多いにあるだろう。弱さ、甘さへの不寛容。
ただ、男性らしさのような規範をまったく解体してしまえばいいとも思えず、強さはジェンダーに関わらず普遍的な(性別を超えた)規範として社会で意義があると思う。強くあること、それを目指すことと、弱者を叩かない、弱音を吐くことを見下さない、という寛容さを両立することができれば良いのではないかと思うが、そのような微妙なバランスが社会で実現できるのかどうか、もっと明確な思想、理論があるのかどうか、知りたい。
先日、こういう記事が話題になった。
このあたりとても重要な議論だと思います。
「昨今大人の発達障害が増えたといわれる背景には、世間や会社組織が「異質であること」「非効率であること」に不寛容になったことがあると思う。」
「現代社会において「ちょっと変わった人」の居場所は確実に減った。」https://t.co/Te9v2drONt— ふかや/リベラルアーツガイド (@fuka_media) August 26, 2020
大人の発達障害が問題になるのは、変わった人、標準的ではない人、枠にはまらない人、現代的な基準での仕事ができない人などに対して不寛容な社会になったからではないのか、ということだ。経済について考えるのは重要だが、経済問題を土台にしてこういった精神的側面の問題が生まれている、ということにももっと光が当たるべきだと感じる。経済が解決すれば精神的側面の問題も解決できると短絡的に考えるべきではなく、精神的側面の問題についても社会で考えていかなければならない。
「恨み」の時代
また、別言すれば何かに「恨み」を持つ人が非情に多い時代とも言える気がする(もちろん多いかどうかはデータ分析が必要だが、主観的に)。
会社、上司、政府、親、家族。こういった自分が所属する大小さまざまなコミュニティに対して恨みを持ち、強く批判したり反発的な行動を取る。また、それを肯定するような言説が広まる。事実はどうであれ、社会が悪い、企業が悪いという言説がまかり通り、そこに対して対抗的、攻撃的な行動や原動も許される場合がある。少なくともネットはそういう恨みのふきだめになっている。なぜこれほど、恨みを持つ人が多いのか?生きづらさの問題と同根であると思う。