映画における「善い」人間の描写
最近、いくつかの映画(主に邦画)を観て感じたことがある。それは、多くの映画では独りよがりではなく人との協力、逃避より向き合うこと、自分の責任を果たすこと、排他的な行動・攻撃より対話による解決などが「善いもの」として描かれているということ。このようなことが映画のテーマとして描かれるということは、少なくともそのようなものを観たいと思う人が多いからだろう。つまり、そのような行為、姿勢が「善いもの」と日本社会では考えられている、と言って良いと思う。映画の根底にあるのは倫理観である、という言葉をどこかで目にしたことがあるが、まさに上記のものが日本映画で良く描かれる倫理観なのだろう。最近観たとある映画でも、描かれていたのは、向き合いたくない自分の弱さや過去の過ちと向かい合って、人間的に成長していく姿だった。
これは、考えてみれば当然の描写であり、当然の倫理観ではあると思う。このような倫理観を「善いもの」と考える人は、世代や国に関係なく多いと思う。こうした倫理観はある程度人類に普遍的なものだからだろう。文明が著しく発達した一方で、人間の倫理観や徳、成熟といったテーマは古代からそれほど変わっていない。むしろ、世の中がシンプルで生死が身近だった過去の方が、倫理観を明確に持ち、個人としても身に付けようとする機会は豊富だったかもしれない。古代ローマの皇帝、マルクス・アウレリウス・アントニウスの『自省録』のような書物を開くと、現代人でも十分納得できるような人としての在り方が説かれていることが分かる。
現代社会における人間関係の変化
一方、現代社会においては、こうした倫理観を身に付けて人間的に成熟する機会、たとえば人との間で抱えた問題を対話によって乗り越える、協調によって問題を解決する、といったことが避けられるようになっているのではないか、という気がした。
現代では、過去には多様に存在したであろうコミュニティの多く(家族、血縁的な共同体、地域社会、事業の組合、会社組織その他)が崩壊して社会が流動化した。転職は当たり前になり、逆に個々人の抱える生活・仕事上のストレスは過多になり、「ストレスで心身を壊すよりさっさと逃げた方が良い」という言説も多く見かけるようになった。人間関係は、近代以前よりも刹那的になったように思う。さらに、デジタル化が進み、一部の業種では人と人とが顔を合わせずに仕事を進めることが問題なく行われるようになり、それは新型コロナによるテレワークの急速な導入によって、「新常態」として積極的に受け入れられるようになった。人間関係にストレスを覚える繊細な人や心に問題を抱えた人は、むしろテレワークのような新しい働き方を活用して人と顔を合わせずに仕事をした方が良い、と言われることも多く見受けられる。
もちろん、実際には対面で仕事をする人も非常に多い。また、長期的な人間関係を持ちその中で成熟していく人も多いと思う。また、社会の流動化は雇用のミスマッチを減らし、身分や性別に(ある程度)関係なく仕事に就くことができるようになった。デジタル化についてもメリットは非常に大きく、その良い側面について否定するつもりはまったくない。しかし、ここでは、こうした社会の変化の別の側面に着目したい。それが、人との摩擦を経験する機会が減ることについてだ。
人間的成熟を得る機会が失われる
人間はやはり本質的に、直接の人間関係における摩擦の中でさまざまな感情を経験し、コミュニケーションを取り、喧嘩、対立、争い、否定を乗り越えて対話を続け、また、自分が深く傷つく中で想像力を身に付け、人間的に成長・成熟していくものだと思う。しかし、人間関係の摩擦から簡単に逃げられてしまう社会においては、そのような摩擦を乗り越えて自分を成熟させる機会が減っていくのではないかと思うのだ。
嫌な上司がいたら逃げられるというのは、確かにストレスを抱えないためには重要である。しかし、嫌な人間関係から逃げることだけを行っていれば、対立を超えて人を知ることや、互いに納得して妥協点を見つけるような経験は得られない。テレワークであればほとんど文字上のやり取りしかしなくて良いし、コミュニケーションは効率的になると思う。無駄なことはせず、自分の作業に集中できる。しかし、直接人と対話する機会は減り、人との摩擦を感じる機会も減る。そうなれば、摩擦を超えたコミュニケーションをしようという意思もなくなるだろう。
流動化やデジタル化は文明にとっては良いことでも、人間個人の成熟としてはメリットばかりではないように思う。実社会における行動規範として、伝統的な規範が解体されてしまったために、「善い生き方」「人間的成熟」という観点の議論がなくなり、社会をサバイバルすることばかりが論じられるようになったように思う。そのサバイバルの延長戦上で、稼いで人生「あがり」のようなことが「成功」であると説かれることもある。こうした社会は、文化的に貧困だと思う。
映画の中における理想的な人間の在り方が感動を生むのは、それが社会から失われつつあるからかもしれない。
社会の流れを個人の力で変えることはできないが、せめて自分の生き方くらいは自分で決めていきたい。最近の映画鑑賞を通じて、そういうことを感じた。