ローマ(1)共和制
地中海世界では、オリエント世界に対して辺境だったギリシアでポリス社会が発展し、専制的なオリエント国家に対して民主的な社会が誕生した(もちろん、アテネのように民主政が発達したポリスもあればスパルタのように貴族政の国家もポリスもあった)。ギリシアは東方の大国アケメネス朝ペルシアから圧迫を受けるも連合して対抗。しかしその後、都市国家同士で対立し一時弱体化する。その隙に小アジアの辺境だったマケドニアでアレクサンドロス大王が台頭し、ギリシアからオリエントまで広範な世界を征服する。ギリシアも支配され、一定以上の財産を持たない市民は参政権を失った。ギリシア人はマケドニア支配時も各地で文化を広める(ヘレニズム)。マケドニアの帝国はアレクサンドロスの死後分裂し、地中海世界では徐々にローマが強力になっていった。
これから3記事にわたって、ローマの歴史を解説する。
目次
1章:ローマとは
ローマはイタリア半島西岸の都市であり、紀元前2000年紀から青銅器文化を持つ人々が居住していた。紀元前12世紀ごろにはインド=ヨーロッパ族のイタリア人がイタリア半島に移住し、その一派であるラテン人らはティベル側流域に集落を作った。それが後のローマになっていく。ローマは当初、部族国家で王、貴族、平民が区別されていた。しかし王や貴族は絶対的な権力を持った支配者ではなく、平民も隷属していたわけではなかった。これは、古代ギリシアの他のポリスにも見られた特徴である。
その後、9世紀頃からローマはギリシア人やエトルリア人によって文明化し、また一部のエトルリア人はイタリア半島でポリスを形成し、紀元前7世紀末にはローマを支配した。しかし、紀元前509年にラテン人はエトルリア人を追放し貴族共和政を形成する。エトルリアの文化はローマに継承された。
このような背景から、ローマの歴史は始まるのであった。
ローマの歴史を解説する前に、その全体像を確認する。ローマの歴史は大きく「共和政」「帝政」の2つの時代に分けられ、さらにそれぞれは以下のように分けられる。この記事では、「共和政の時代」を解説する。
■共和政の時代
- 身分闘争の時代
- ポエニ戦争
- 内乱の1世紀
■ 帝政の時代
- 元首制の開始:前27年~96年
- 五賢帝時代:96~180年
- 軍人皇帝時代:180~284年
- 専制君主政:284~395年
2章:ローマ・身分闘争の時代
前述の通り、ローマはエトルリア人の王をラテン人が追放し、それから貴族共和政の時代が始まった。
2-1:ローマの貴族共和政
貴族共和政とは、貴族を中心に政治が営まれ平民は政治参加できない政体だった。具体的には、下記のような役職が置かれて貴族中心の統治が行われた。
- コンスル(執政官)任期1年、定員2名の最高官
- ディクタトル(独裁官)任期半年、定員1名の臨時職
- 元老院:最高の意思決定機関300人の終身議員(執政官を監督し、実際には元老院が実権を握っていた)
王が1人で絶対的な権力を振るう専制君主制とは大きく異なるものの、一部の貴族が実権を握っていたため、平民は自らの声を政治に反映するチャネルを持たなかったのである。
しかし、繰り返しになるが平民は隷属的な立場だったわけではない。ギリシアのポリスと同じように、平民は自立的な農民で重装歩兵として戦争にも参加していた。そのため、これもギリシアのポリスと同じように、平民は政治的権利を要求して貴族と身分闘争を起こすようになる。
2-2:身分闘争
身分闘争は、貴族(パトリキ)と平民(プレブス)の間で激しく行われたもので、その中身は平民による参政権の要求であった。
平民は商工業の発達によって武器を購入できるようになり、その武器によって重装歩兵として国防に参加していた。ギリシアのポリスでもそうであったように、貴族らの権力の正当性は兵士として他国と戦うことで、この国を守っているという国防的側面にあったため、平民も国防を担うことで「私たちも国のために戦っているのに、政治参加できないのはおかしい」と要求するようになったのである。
平民の要求から、貴族は譲歩して紀元前5世紀以降、徐々に参政権を拡大させる。
- 紀元前5世紀初め
- 護民官の設置:元老院・執政官の決定に対し、護民官は拒否権を持つ
- 平民会の設置:平民のみで構成、護民官が議長となる
- 紀元前450年頃
- 十二表法:慣習法の成文化(ローマ最古の成文法)によって貴族の法の独占の防止し平民の権利が守られる
- 紀元前367年頃
- リキニウス=セクスティウス法:コンスルの1人を平民から選出
- 紀元前287年
- ホルテンシウス法:平民会の決議が元老院の承認なしに国法となり、平民が法を作れる
ホルテンシウス法制定の結果、 その結果、貴族と平民の法的平等が達成される。こうして身分闘争は終わったものの、平民の有力者が執政官から元老院に入り「新貴族」となり、実権を握るようになり、政体自体は民主政に移行せず貴族寡頭制が続行したのがローマの特徴である。平民に権利が広がったのは進歩だが、民主政に直結したわけではなかったのだ。
こうして、対立の火種は残されたままとなったが、一方でローマの指導者は植民活動に熱心になっていく。
3章:ローマ・ポエニ戦争
一応は共和政を実現したローマだったが、ローマの指導者らは戦争、支配、植民都市や軍道の建設を熱心に行っていった。中小農民は重装歩兵として活躍し、戦利品を獲る。また、貴族は将軍として戦い勝利することで名誉を得ることができた。こうして、紀元前3世紀後半にイタリア半島全土を支配した。
ローマは植民都市を建設して各地を統治したが、このとき分割統治の原則を適用した。つまり、支配した土地の住民をローマ人と比べて差別的な待遇を与えて、待遇改善を餌に統治に協力させたのである。

ローマ共和政 引用元:世界の歴史まっぷ
3-1:ポエニ戦争とカルタゴの支配
こうしたローマの植民活動は、カルタゴとの衝突でポエニ戦争(紀元前264年-紀元前146年)を勃発させる。カルタゴとは、フェニキア人の植民都市で、ローマは地中海の覇権を争ったのである。
第1回ポエニ戦争では、ローマがシチリア島を獲得してローマ初の属州(海外植民地)となる。つまり、イタリア半島の長靴部分以外に初めて属州を持ったのであった。
さらに第2回ポエニ戦争では、カルタゴのハンニバルがイタリアに侵入して反撃した。ハンニバルは象を使ってアルプスを越えたと言われている。第2回ポエニ戦争では、カンネーの戦いでローマが敗北、ローマ側にはスキピオが登場してスペインを制圧し、カルタゴを攻撃。ハンニバルもカルタゴを守るために戻って戦う(ザマ戦争)も、ローマが勝利した。そして、第3回の戦争ではローマの勝利でカルタゴは滅亡する。

ハンニバル 引用元:Wikipedia
こうして、ローマはカルタゴの支配地を獲得し広大な領地を手に入れたのである。
しかし、ポエニ戦争では徐々にローマは侵略的な性格を強くし、マケドニアやギリシアのコリントを滅ぼすなどし搾取したことも押さえておくべきである。
3-2:ローマ社会の変質
また、ポエニ戦争という戦乱が100年以上続いたために、ローマ社会にも影響が与えられた。一言でいえば、格差が拡大したのである。
ポエニ戦争後、ローマは支配地を広げたことで奴隷を獲得した。奴隷の獲得によって元老院は富を増やし、奴隷を使った奴隷制大農園(ラティフンディア)を発展させた。簡単に言えば、金持ちが獲得した奴隷を使って農業で儲けようとしたのである。また、富を得た平民は騎士という上層市民の役割を得ることができ、商業を禁じられた元老院の議員のかわりに交易を行った。彼ら騎士階層の者たちも、やがて奴隷制大農園を経営するようになる。
一方で、大農園が発達した結果、中小農民(自作農)は没落することになった。中小農民は戦争に参戦して戦ったものの、戦争は長年に及んだため留守の間放置された農地は荒れ、荒れた農地は大農家に売り渡された。大農家は買った農地を奴隷に働かせてさらに富み、中小農家は無産階級(プロレタリー)となる。
こうして格差が拡大し、失業・没落した中小農家の市民たちは、ローマ市内に流入した。彼らは市民として政治参加することはできたため、政治家は混乱を収めるために中小農家にパンと見世物(コロッセオ)を与えた(パンとサーカス)。
格差の拡大は、政治的な変化にもつながった。ローマの政治は、伝統を重視し貴族らを代表する閥族派と平民が支持する平民派とに対立が発生したのである。
ギリシアがそうであったようにローマも土地を所有する自作農民が軍隊として戦争に参加することを前提にしていた国家である。そのため、無産階級の市民が増え格差が拡大したことは、ローマの歴史上大きな出来事であった。
4章:ローマ・内乱の1世紀
カルタゴとのポエニ戦争を経て、ローマ社会も大きく変質した。土地を所有しない市民が増加したことは社会の混乱や、軍隊の維持の困難などにもつながるため、この社会を変革しようとする動きが生まれた。しかし、改革は対立を生み内乱の1世紀と呼ばれる時代に突入する
4-1:内乱の1世紀
内乱の1世紀は、紀元前133年-紀元前31世紀の頃の話である。
ローマ社会の混乱を解決するために、平民派のグラックス兄弟(兄ティベリウス、弟ガイウス)が相次いで護民官となり、改革を行う。その改革とは、富裕層から土地を没収して無産市民に配分する政策だった。しかし、兄はこの政策を進めようとして殺され、その後弟のガイウスが兄の改革を再開した。ガイウスは改革を進めるために兄とは異なる政策も行おうとしたものの、やはり元老院によって殺される。これは当然、元老院らの富裕層にとって、グラックス兄弟の行おうとした改革が損になるものだったからである。また、兄の殺害をきっかけに、ローマは内乱に突入した。ローマは格差と内乱でかつてない危機的状況に入っていく。
内乱の1世紀には、3つの内乱が起こった。
1つは、閥族派(スラ/貴族)と平民派(マリウス)の争いである。マリウスは無産市民を志願兵として訓練し、アフリカのヌミディアを破った。将軍として非常に有能であり、5年連続執政官を務めたことから独裁者となることが対立者たちに恐れられ、閥族派のスラと争った。
2つめは、ローマとイタリアの同盟市の間における同盟市戦争である。ローマは対外侵略のために同盟市を強力させたが、同盟市の人々は市民権を持たなかったことから適正な分配を得られなかった。それに不満を持った同盟市に対し、平民派は市民権を与えることを提案するも閥族派が拒否。イタリアの同盟市は市民権を求めて反乱した。結果、ローマはイタリア全土の市民にローマ市民権を与えることとなった(とはいえ、民会などの仕組みは継続したため、遠方の市民は事実上政治参加できなかった)。
3つめは、スパルタクスの乱である。スパルタクスの乱とは、剣闘士奴隷(自作農の気晴らしのための見世物をさせられていた人々)の反乱であり、ポンペイウスと大富豪クラッスス、天才的な軍人ユリウス・カエサル(平民派)によって打倒された。そして、この3人が政治的に有力になり、三頭政治が展開する。
4-2:三頭政治
三頭政治とは、前述のポンペイウス、クラッスス、ユリウス・カエサルの3人が密約を結んで政治権力を分担して握った政治のことである。三頭政治には第1回、第2回の大きく2回があった。
4-2-1:第1回三頭政治
第1回三頭政治は、ポンペイウスがオリエント、カエサルがガリア(今のフランス)を統治した。クラッススはパルティアとの戦争を任されたが戦死し、カエサルはガリアを征服して名声を得る。

カエサル 引用元:Wikipedia
しかし、もともと政治を3人で分担していたのにかかわらず、ポンペイウスは元老院と組んで力を高めたカエサルを公敵と宣言する。これに起こったカエサルはローマを占拠しポンペイウスを殺し、政治権力を独占した。また、このときアフリカまで攻め入り、内乱で危機だったクレオパトラ7世を助けて子どもを作っている。
カエサルは、最高軍司令官、最高神官の地位を持ち独裁官(任期10年)となり、また、ショー(剣闘士の競技)や公共建築、属州の諸民族へのローマ市民権の供与などで、民衆からも強い支持を得た。
しかし、カエサルは独裁政治を行い性急な改革を行ったために暗殺されてします。暗殺したのはブルートゥスらであったが、ブルートゥスは追放され新たな三頭政治が始まる。
ローマの歴史的には、カエサルが独裁政治の道を開いたということが非常に重要なポイントである。
4-2-2:第2回三頭政治
第2回三頭政治は、ブルートゥスを追放してカエサルを神格化したアントニウス、レピドゥス、カエサルの養子とされたオクタヴィアヌスによるものだった。
しかしこれも、すぐに3人の対立がはじまる。アントニウスはクレオパトラ7世と結んで内乱が行われたため、オクタヴィアヌスはエジプト戦いアクティウムの海戦で打倒す。翌年にレピドゥスは自殺し、オクタヴィアヌスはエジプトを併合して天下を平定した。
ちなみに、クレオパトラ7世はプトレマイオス朝エジプトの最後の女王であった。
まとめ
ローマは紀元前12世紀頃から移住したラテン人らによる都市国家としてはじまり、ギリシア人やエトルリア人によって文明化した。エトルリア人によって一時支配されたものの紀元前509年にラテン人らによって打倒され、ラテン人による国家としてローマは発展。
ローマは、他の地中海世界の都市国家と同じように、貴族政で平民と貴族・王の間には絶大な権力差がなかった。そのため、当初貴族共和政を採っていたものの、徐々に富裕になり、軍人として戦争に参加するようになった平民らも政治参加を求めるようになり、身分闘争が起こる。貴族は譲歩して平民の声も政治に反映できるようになるも、平民の一部が新貴族として実権を握り、寡頭制が続いた。
また、平民と貴族の対立は続いたまま、紀元前3世紀にはイタリア半島全土をローマは支配する。さらにローマは地中海の各地に植民活動を広げ、植民都市を作っていき、現地は分割統治しローマ市民と差別し、統治に協力させた。しかし、地中海ではカルタゴも有力だったためローマと衝突する。これがポエニ戦争である。
第1回でローマは支配地を広げ、さらに第2回ではカルタゴのハンニバルが善戦したもののザマ戦争で敗北し、カルタゴはローマに支配される。ローマは地中海を広く征服した。
しかし、長引く戦争によってローマ国内では軍人として参戦した中小農民が農産物を生産できなくなり、元老院らの貴族が属州の奴隷を使って奴隷制大農園を経営するようになる。土地を売り、自律的な農民ではなくなった中小農民=無産市民は貧しくなり、格差が拡大。市民はローマに流入し、ローマでは統治のために「パンとサーカス」の政策が行われる。こうした格差拡大によって、政治的にも閥族派と平民派の対立が生まれる。
こうした問題を解決するために、グラックス兄弟が改革しようとするも暗殺され内乱の時代に突入し、大きく3つの内乱が起こった。その内乱後には、三頭政治が登場する。三頭政治では、カエサルやその養子オクタヴィアヌスが実権を握り、大胆な改革を行うなどの進歩があり、また共和政から独裁による政治へと大きな変化も起こった。したがってこの後、ローマは帝政に進んで行くことになる。
参考文献
木下康彦、木村靖二、吉田寅(編)『詳説世界史』山川出版社
『地域からの世界史(10)地中海』朝日新聞社
マクニール『世界史』(上)中公文庫