古代オリエント(4)オリエントの統一
これまでの古代オリエント世界を見ると、メソポタミア、東地中海周辺、エジプトを中心にさまざまな国家が生まれ、争ってきたことが分かる。大きくは、メソポタミアではシュメール、アッカド、古バビロニア、ヒッタイト・ミタンニ、カッシートらの国家が、エジプトでは古王国、中王国、新王国が、東地中海(シリア・パレスティナ)では、アラム、フェニキア、ヘブライの国家が生まれた。
これら3つの地域は、アッシリア王国によって統一され、ここにはじめて古代オリエント世界が統一されたのである。
ここでは、古代オリエント世界を統一したアッシリアを中心に説明する。
目次
1章:アッシリアによる統一
セム系(セム語系)のアッシリア人は、北メソポタミア(ティグリス川上流)に紀元前2000年頃に国家を建設した。アッシリア人が住む地域はティグリス川上流の高地で、下流のように河が運んでくる沃土による耕作が難しかったため、内陸地交易による発展を目指した。
1-1:紀元前1500年前後ごろの民族大移動
紀元前1500年には北メソポタミアから北シリアにかけて、ミタンニ王国が打ち立てられアッシリアも支配された。
ミタンニ人の支配は、この時代の民族移動による国家の興亡の1つに過ぎなかった。紀元前2000年ごろからヒッタイト人が小アジアに定住し、古バビロニアを滅ぼし、東方ザグロス山地から来たカッシート人もバビロニアを支配した(紀元前1600年-1200年ごろ)。ミタンニがミタンニ王国を立てると、その地域の先住民のフルリ人の一部はエジプトまで移動し、エジプトでヒクソス王朝を立てた(紀元前1650年ごろ)。
このように、紀元前2000年から1500年にかけて、異民族の移動によってオリエント世界は激動だったのである。

引用元:世界の歴史まっぷ
この異民族は、山岳民や北方ステップの戦士らであったが、異民族の侵略は非常に激しく広範囲に及ぶものだったことが分かる。彼らは古代オリエント世界ほどの文明を持たなかったものの、高い戦闘力を持っていた。それが、騎馬技術や、戦車を活用した戦法であった。
戦車戦法は、紀元前1700年から1400年ごろにかけて、現在のアゼルバイジャンあたりからユーラシア大陸に広く広まったものと考えられている(参考:マクニール『世界史』(上)106-107頁)。遊牧民らは馬の扱いに慣れており、彼らが文明化した職人の力を借りて戦車を作り、戦車戦法を編み出したのではないかと思われる。当時、馬をたくみに扱い戦車を使って戦う戦法は他の民族が持たないものだったため、強力な戦闘力となったのである。
彼ら異民族は、各地を侵略していったものの、現地の文明を取り入れ道家していった。また、支配された各地の人々は、戦車技術を取り入れて反撃しようとしていったのである。
1-2:紀元前1200年頃ごろの民族大移動
さらに、紀元前1200年ごろにも古代オリエント世界は民族大移動による興亡が起こる。それは「海の民」の侵略を中心としたものであった。そして、海の民の侵略によりヒッタイトが滅ぼされ、製鉄技術が広がったことで古代オリエントは新たな転換を迎えた。
ヒッタイトは、紀元前19世紀頃に小アジアに国家を建設し、その後成長して紀元前14世紀頃に最盛期を迎えた。400年ほども南メソポタニアを支配したものの、海の民によって滅ぼされる。
ヒッタイトが強大だったのは、製鉄技術を独占していたからであった(当時、他の国家は青銅器だった)。しかし、ヒッタイトが滅ぼされたことで製鉄技術が拡散し、古代オリエントは鉄器時代に入る。
1-3:アッシリアの繁栄と衰退
海の民を中心とした侵略、民族大移動によって諸勢力が衰退したことで、アッシリアが強大化する余地が生まれ、強大な軍事国家となった。アッシリアは鉄製武器や騎馬、戦車といった異民族から吸収した技術、戦法を使って、各地を残虐に侵略していった。

紀元前10世紀前後のオリエント 引用元:世界の歴史まっぷ
- 紀元前12世紀末:ティグラトピレセル1世などの有能な王により、支配地を西は地中海沿岸、北は黒海にまで広げる
- 紀元前9世紀:アッシュナールナシルパル2世が騎馬隊を編成、都をカルフ(限ニムルド)に建設
- 紀元前8世紀:ティグラトピレセル3世がメソポタミアを再統一
- 紀元前8世紀末:サルゴン2世の時代にバビロニア、シリアを支配し、紀元前7世紀前半にはエジプトまで支配を広げ、古代オリエント世界のほぼすべてを支配
- 紀元前7世紀前半:アッシュールバニパル王がニネヴェに大図書館を建設、エラム王国を滅ぼし、オリエント世界を統一、都ニネヴェを建設

紀元前7世紀のアッシリア 引用元:世界の歴史まっぷ
アッシリアの統治は、古代メソポタミアで行われるようになった、官僚制と軍隊による地方の統治と、そのための交通網の整備を中心としたものだった。しかし、アッシリアは残虐な指導者による侵略によって帝国を建設した上、地方の貴族は荒っぽい戦士であり、現代人の立場で考えられるような安定した官僚制は成り立たなかった(参考:マクニール『世界史』111頁)。
また、アッシリアは統治のために圧政、重税といった過酷な支配を強いた。慢性的な被支配民族の反乱を抱え、その鎮圧のために国力が削がれ、それがアッシリア滅亡の原因となった。
マクニールはアッシリア人の滅亡の原因は「騎馬の革命」によってステップの遊牧民が乗馬技術を向上させるようになり、それにより対抗できなくなったと指摘している(前掲書118頁)。アッシリア人の住む環境は馬の飼育に適していなかったため、騎馬技術が発達せず、馬の扱いに慣れたステップの人々に軍事的に優越され、滅亡に至ったということである。
アッシリアの滅亡の直接の原因は、メディア人や新バビロニアとの戦いだった。紀元前700年ごろ、ステップ地帯からスキタイ人が騎馬技術を用いて中東全域に攻撃をしかけ、さらにバビロニア人、メディア人がスキタイ人とも協働してアッシリアを滅ぼしたのだった(前掲書120頁)。
こうして、勝利したメディア人とバビロニア人はアッシリアを分割した。
2章:アッシリアの分裂
アッシリアを滅ぼしたメディア人とバビロニア人、そしてエジプト人は、アッシリアを3分して支配した。
- バビロニア人:新バビロニア
- メディア人:メディア王国(現在のイラン地方)
- エジプト人:エジプト第26王朝

アッシリアの分裂 引用元:世界の歴史まっぷ
また、これに加えて小アジア西部にはリディア王国が建てられた。リディアは世界最古の鋳造貨幣を作ったことで知られる。
この中でも、特に新バビロニアはアッシリア帝国の大部分(メソポタニア、シリア・パレスティナ地方)を継承し最も繁栄した。
また、これらの国はアッシリアを分割したもののすぐに争いをはじめ、新バビロニアはエジプトとシリアをめぐって争い、エジプトと連合したユダ王国は新バビロニアのネブカドネザル2世に滅ぼされた。そして、ユダ王国の指導者はバビロンに連行されたのである(バビロン捕囚)。バビロン捕囚については、古代のシリア・パレスティナの記事にも書いている。
3章:アケメネス朝ペルシア
こうして繁栄した新バビロニアであったが、新しく出たアケメネス朝ペルシアによって支配されることになる。
ペルシアは、ファールス地方(イランの高原)にいたインド=ヨーロッパ系民族のイラン人が建てた国である。ペルシアはメディア人(これもイラン系)によって支配されていたものの、キュロス2世がメディアを倒して独立し、アケメネス朝ペルシアを建国した。
キュロスはリディア、新バビロニアも支配し、さらにそ2代目カンビセス2世と3代目ダレイオス1世は、エジプトとインド北西部を支配してペルシアに組み込み、大帝国を打ち立てた。

アケメネス朝ペルシア 引用元:世界の歴史まっぷ
この地域の歴史で何度も見られたように、この地域で帝国を打ち立てることはステップの遊牧民からの攻撃を防衛することが非常に重要であった。そんのため、キュロス、カンビセス2世、ダレイオス1世らペルシアの王は、遊牧民を威圧するために騎馬遊牧民を雇い、防衛する体制を作り、また自らもステップに攻撃に赴いた(その戦いでキュロスは命を落とした)。
ダレイオス1世が最盛期であり、専制的な中央集権国家を建設した。ただし、その統治は寛容であったため広大な範囲の支配が可能だったとされる。
3-1:統治手法
アケメネス朝ペルシアの統治は、サトラップ(知事)と監察官を地方において支配する方法であった。
具体的には、下記の通りである。
- ペルシア全土を20以上の州にわける
- それぞれに知事をおく
- さらに監察官(王の目、王の耳)を配置して知事を監視させる
- スサ~サルデスまでの道路の建設と駅伝制をしく
これを見れば、官僚制や道路の建設を統治手段としたアッシリアの伝統が引き継がれていることがわかる。
3-2:寛容な支配
アッシリアが過酷な支配をしいたのに対し、アケメネス朝ペルシアは寛容な支配を行ったことが特徴的である。
ペルシアは支配した異民族らの伝統を認め、自治も認めた。また、法律も復活させようとした。
このようにアケメネス朝ペルシアの統治手法は、アッシリアの統治手法を受け継ぎつつさらに改善したものだったため、広大な統治を可能にしたのだった。

ダレイオス3世 引用元:Wikipedia
しかし、それでも帝国は200年足らずしか続かず、ダレイオス3世の時代に地方の知事の反乱やギリシアとの戦争によって滅亡することになる(紀元前4世紀)。
3-3:滅亡
アケメネス朝ペルシアは、ギリシア世界との戦いの中で滅亡した。この時代、文明の中心はオリエント≒中東世界だったため、ギリシア方面は辺境であった。しかし、これ以降文明の中心はギリシア・ローマというより西方の地域に移り変わっていくのである。
詳しくはギリシアの項目で説明するとして、簡単に説明するが、アケメネス朝ペルシアはギリシア世界とペルシア戦争で戦い、アレクサンドロス大王によって支配されて滅亡したのである。これが、ダレイオス3世の時代だった。ペルシアはギリシアからすれば強大な国家だったが、ペルシアの繰り返しの侵略に対して都市国家同士が同盟を組んで対抗し、たくみな戦術もあって打倒すことができた。
その後、アレクサンドロス大王はアケメネス朝ペルシアにギリシア世界も加えた、広大な帝国を打ち立てることになる。
こうして滅亡したアケメネス朝ペルシアだったが、世界史的な意義としては、オリエント世界の全土を支配して有機的な繋がりを作り出したことであった。さまざまな民族によって国家が打ち立てられ、争われ、支配されてきたオリエント世界が、はじめて一つの世界になったのである。長い期間ではなかったが、政治的な安定の下で経済的、文化的な交流が活発になり、一つの文明圏になったのである。
これはもちろん、アケメネス朝ペルシアだけの成果ではなく、特にメソポタニア以来作られてきた統治の手段(官僚制、交通の開発)や異民族から吸収した技術(騎馬、戦車、製鉄)が継承、発展させられてきた成果であった。
4章:ゾロアスター教の誕生
アケメネス朝ペルシアの時代、宗教的にはゾロアスター教が誕生したことが重要である。
ゾロアスター教とは、火を神聖視する宗教(拝火教)で、善の神アフラマズダと悪の神アーリマンを神とする二神教である。ゾロアスター教の教義では、1万2000年後に二人の神が善行と悪行を決着をつけるという「最後の審判」が信仰されていた。これは、古代イランの二元論的な民族宗教が、メディア生まれのゾロアスターによって改革され、救済宗教に高められたものであるとされる。
この二元論的や最後の審判といった信仰は、ユダヤ人がユダヤ教に取り入れ、さらにそれはユダヤ教から派生したキリスト教にも引き継がれた。
参考文献
木下康彦、木村靖二、吉田寅(編)『詳説世界史』山川出版社
『地域からの世界史(7)西アジア』(上)朝日新聞社
マクニール『世界史』(上)中公文庫
小林登志子『古代オリエントの神々-文明の興亡と宗教の起源-』中公新書